サッカーの元西ドイツ代表で、Jリーグの市原(現千葉)などでもプレーしたピエール・リトバルスキーさん(62)。ワールドカップ(W杯)には1982年スペイン大会から3大会連続で出場し、90年イタリア大会では世界王者の一員となった。
身長170センチに満たない小柄で、当時のドイツの選手では珍しいドリブル突破を武器とした技巧派。「リティ」の愛称で親しまれた。W杯カタール大会開幕を前に、このほど時事通信社の単独インタビューに応じ、自身のキャリアや日本との縁、日本とドイツが対戦するカタール大会などについて語った。(聞き手・ドイツ・ケルン在住スポーツジャーナリスト 吉泉愛)
【目次】
◆小さい体、ドリブルで対抗
◆「最後のチャンス」3度目のW杯で優勝
◆「堂安はスカウトの仕事でよく見ていた」
◆日本-ドイツ戦は「戦術面で楽しみ」
◆日本で監督?「是非行きたい」
小さい体、ドリブルで対抗
―ドリブラーであることについてうかがってみたかった。監督によってはドリブルを嫌う人もいたと思うが。
監督というのはいつも最良の結果を求めている。時にはドリブラーであることに難しさが生じることもあった。チームメートとの間にも。でもクオリティーが高ければ、例えばムシアラ(バイエルン・ミュンヘン)のように、ドリブラーがチームにもたらすものは大きいと思っている。
日本にも個人で勝負できる、ドリブルで抜ける選手がいる。現代サッカーはパスが主流で、選手たちはパスをつなぐことに長けている。だから多くの試合は拮抗(きっこう)するが、そうだからこそ現代サッカーでは特にドリブラーがいることが重要だと思う。私がまだ若かった頃はドリブラーに対して非常に風当たりが強かった。
―ドリブルからのゴールを重ねることで認めさせた。
その通り。あとはアシストで。
―あなたは世界中のドリブラーのアイドルだった。
Jリーグへ行ったときもカズ(三浦知良)をはじめ、いいドリブラーがいた。子どもたちにとっては、ドリブラーのお手本がいたことは良いことだったと思う。
―ムシアラの名前が出た。彼はドイツ代表で違いをつくる選手となった。どう見ているか。
ここ最近のドイツ代表は好調とは言えず、まだベストメンバーを探っている途中だと思う。でもムシアラは先発メンバーの一人になると思っている。彼はとても重要な選手で、サネ(バイエルン・ミュンヘン)もそうだが、ドイツの戦い方にアクセントをつけてくれる。
―その「アクセント」とはストリートサッカーの要素と言われる。
もちろん彼らは私たちのように実際にはストリートサッカーでは育ってはいないが、選手としてそういうふうに成長した。見ていてワクワクするプレーヤーだ。
―リティがドリブラーになった背景は。ストリートサッカーやボルツプラッツ(ドイツでは町のいたるところにあるミニサッカーコート)で磨いたのか。
ボルツプラッツで練習した。自分よりも大きな子どもたちとも戦う中で、小さい体で対抗できるよう、挑み続けた。日本でもよく「ドリブルはどういう練習をしたか」と聞かれたが、単にボールを奪われたくなかった、そのための策が自然に身に付いた。私は体が小さかったので、俊敏さと技術でボールを相手に渡さないようにと。それがとても楽しくて、どんどんボールを持っていたい気持ちが高まった。そうやって自然に技を磨いていった。コーンを使ったドリブルの練習などはしなかった。
―生身の人間がコーン代わり。
何より狭いピッチだったのがポイント。スペースがあれば単純なスピードが求められるし、スペースがなければ敏しょう性、俊敏さが必要。
―両足を使えることもボルツプラッツでの練習で。
キックの練習をボルツプラッツでやった。3歳年上の女の子がいて、10年間その子に勝てなかった。向かい合って両足交互にシュートを打ち合うが、そのレギーナという女の子に勝てなかった。悔しかった。でも、彼女はすごくうまかった。
―シューネンベルクというクラブチームで長くプレーした。
7歳から16歳。普通の町クラブだったが、偶然にいい選手が集まっていて強かった。16歳でもう少しレベルの高いクラブに移った。ドイツのユース選手権を戦うことはベルリン(の地域)では非常に重要だったので。それで、ヘルタ・ツェーエンドルフに移籍した。当時最も強いユースクラブだった。
―それからケルンへ。
そのユース選手権の決勝で、ケルンと決勝で戦った。ケルンは新シーズンに向けて大幅に選手を入れ替える計画で、ケルンのマネジャーが私のプレーを見て、推薦してくれた。当時のバイスバイラー監督は「少なくともストライカーか?」とマネジャーに聞き、彼が「いいストライカー」と言ったところで、獲得が決まった。偶然の部分が大きかった、プロになったのは。
「最後のチャンス」3度目のW杯で優勝
―W杯でボールボーイをしたことがあると聞きました。
1974年W杯(西ドイツ大会)でボールボーイをやった。東ドイツ対チリの試合。シューネンベルクのチームが好成績を収め、チームとして表彰されてボールボーイをさせてもらった。とても誇り高い気分だった。
―ボールボーイをやることになった瞬間、どんな気持ちだったか。
それはみんなでとても喜んだ。でも、選手入場の脇で、すごく緊張していたのを覚えている。心臓がドキドキした。みんな、ボールが自分のところに来たときには猛ダッシュで拾いに行って、急いでボールを返した。とにかく全力でやった。(ベルリンの)オリンピック競技場の雰囲気は本当に素晴らしかった。
―その後、選手として初めてW杯に参加した時はどうだったか。
選手としてW杯でプレーできることは本当にうれしいことだった。W杯より前の最初の代表戦はすごく緊張したが、初めてのW杯の試合では(デアバル)監督が「とにかく楽しめばいい」と言ってくれて、それで緊張が吹っ飛んだ。最初のW杯はプレーする喜びであふれていた。
―最初のW杯と次のW杯は準優勝だった。
決勝の舞台に立ったらやっぱり勝ちたかったと気持ちは大きい。でも、イタリアとアルゼンチンはわれわれよりも上手だった。
―自身3度目のW杯で優勝。今度こそ勝たなければという雰囲気だったか。
当時、30歳だったし、現実的に「最後のチャンス」だと考えていた。当時のチームはすごく良い選手がそろっていたし、アルゼンチンは前回大会ほど強くない、恐れる相手ではないという自信があった。これが重要だった。
―ドイツ代表はいつも「自信」があるように見える。
他の国などから過大評価されることが多く、自分たちもすぐに「われわれは強い」と信じてしまう。これはトーナメントでは有利に働くが、2020年ころまでの8年間は私たちもナーバスになるところがあった。そこまでの自信も持てなかった。もちろん成績が良くなかったことも要因。(90年の優勝のときは)3度決勝に進めたという自信があった。多くのいい選手と代表チームで一緒に成長できたことは幸運だった。マテウス、フェラー、クリンスマンらと信頼関係もしっかり築かれていたのも大きかった。
―W杯で日本は16強の壁に苦しんでいる。
(前回大会のベルギー戦は)素晴らしい試合だった。一瞬の隙を突かれてしまった。多くの不運も重なった。ベルギー代表からも「日本は本当に良かった」という声が聞こえてきた。本当に一瞬の差。そこに集中できるかというところ。
―ボールを奪われてはいけない場所、得点しなくてはならない場面など日本はまだ経験が浅いのか。
ゴールを決めることはクオリティーの問題。幸運も少し味方しなくてはいけない。最大の注意が必要な局面があること、例えば切り替えのところや自分たちのCKでのリスクマネジメントについては日本チームもドイツと同じくらい知識としてある。本当に細かいところが差につながる。
―その細かいところをどう克服したらよいか。
経験からくるものは大きい。でも、近年、日本の選手たちがどのリーグで戦っているか考えて、私が日本に行ったころの中山雅史やカズ、ラモ(ラモス瑠偉)の時代と比べると、当時はみんなW杯に出られること自体が喜びだった。今の選手はもっとハートというより、頭でプレーしていると感じる。そこは変化してきたところだと思う。
「堂安はスカウトの仕事でよく見ていた」
―今回、日本は8強までいけそうか。
コスタリカについてはよく知らないが、(ドイツ、スペイン、日本の)3チームでグループ1、2位を争うことになりそう。日本の選手たちは成長を遂げ、選手はそろっている。
―日本チームで注目している選手は?
みんな名のある選手。堂安律、伊東純也、南野拓実、鎌田大地はすごく良い。田中碧もドイツでプレーしている。守備陣もいい選手がそろっている。(湘南)ベルマーレの町野修斗もすごく良い。ちょっとタイプが違う。遠藤航は巧みにバランスが取れるし、自信にあふれているところもいい。クオリティーの高いチームです。堂安は本当に伸びた。彼が若い時、スカウトとしての仕事でよく見ていた。とても興味深い選手。ゴールに迫ることも多くなっている。
―W杯で堂安がゴールを決めてくれそうか。
1ゴールは絶対決めるだろう。もっと決めるかもしれない。選手としての自信を高めている。南野、南野も良い選手。とても興味深い。
―ちょっと話が戻るが、日本へ行った当時のことを。遠い国への移籍だったが。
未知の国だった。不安もあった。外国に行けばその国に合った行動をしなくてはいけないが、日本のことを知らなさ過ぎた。最初は情報に埋もれて、Jリーグも始まっていて、消化するのに苦労した。1カ月ほど、1人で探検した。例えば地下鉄に乗ったり、最初の試合が広島だったので、平和記念公園を見たり、いろいろ見ていく中で、日本で生活できることを確信した。
―日本食は。
すごく好き。以前は魚を食べなかったが、刺し身もおすしも、たこ焼きも食べられるようになった。最初は読むことができなかったので、何を食べているのか知らずに食べてみて、おいしい物を見つけていった。
―今でも和食派か。
家で日本食をつくる。日本風の唐揚げとか。デュッセルドルフで日本の調味料や粉類もそろえられる。ドイツの物より、日本の調味料の方が多いくらい。週に2、3回は和食。ラーメンも魚と野菜でつくる。
―ドイツ対日本はどんな気持ちで見るか。
複雑な心境。日本は第二故郷だし、日本には腹を割って話せる友達がたくさんいる。とても良い思い出がある。
日本のチームも指導している。星槎学園高等部の女子チーム。昨年、全国大会で優勝したと思う。男子も見ている。日本に行けばいつも2、3日は練習をしている。とても楽しいし、特に女子チームは本当にいい。タレントが豊富で、日本代表にも入る選手もいるだろう。
―星槎学園の指導はいつからか。
15年くらい前から。今年亡くなったが、学長さんにお世話になっていた。横浜FCの時に彼が合宿のスポンサーをしてくれて、古いバスも買ってくれた。クラブはお金がなかったので。宮澤保夫さん。彼とは長い友人関係だった。日本に行って、星槎学園高校の練習に行くととても居心地が良くて、みんなで食堂で食事をして、とても楽しい。
―選手たちは幸せ。
選手たちは本当にレベルが高い。練習中の集中力も高いし、ドイツの子どもたちと全然違う。
―日本のメンタリティー、まじめで熱心なところはサッカーにもプラスに働くと考えるか。
もちろん。日本で監督をしている時はすごく充実していた。選手たちは非常に熱心で、己を高めたいという思いで取り組んでいた。欧州ではそれが難しい。なぜなぜならば、選手たちは「特別」でありたいと考えているから。そこは大きな違い。
長谷部誠とも仲がいいが、彼がウォルフスブルクの選手だった時の姿を観察していると、準備の入念さに驚かされた。香川真司は自宅に酸素治療の機材まで入れていた。すばらしい姿勢だと思う。全てをサッカーのために尽くすという部分で。
日本-ドイツ戦は「戦術面で楽しみ」
―日本にもチャンスがあるような気になってきた。
私もそう思う。ドイツにとって日本は簡単な相手ではない。俊敏な攻撃陣とか。日本がどういう戦術で臨んでくるかもとても楽しみだ。(森保一)監督のことはよく知っています。対戦したこともある。日本はいろいろなシステムで戦ってきたし、戦術のオプションが多い。ドイツにとって簡単な試合にはならないと思う。
―複数のポジションができる選手も多い。
それもそうだし、それから流れの中でのポジションチェンジ。例えば堂安が中に絞ったら他の選手がそのスペースを使う。このポジションチェンジに対応するのは難しいこと。守備陣も体格が良く1対1に強い選手が育っている。
―ドイツは引いて守るチームに苦戦することが多いと思うが。
まあその通りだし、加えて、切り替えが素早いチーム。引いているだけでなくてね。日本はそうは戦ってこないと思う。引いて守ることはない。最近の試合でも攻撃的な戦いを試みることが多かった。なので面白い。ドイツのセンターバックは大柄で、俊敏な選手や鎌田のように2列目から飛び出してくる選手をつかまえるのは難しいかもしれない。戦術面で楽しみな部分が多い。
―ドイツ代表のフリック監督とはケルン時代に同僚だった。
実は、ドイツ代表の監督とは古い友人。ケルンでチームメートだった時代、家が隣だった。私たちの家を挟む形で共有の庭があって、そこでいつも2人でテニスに興じていた。私たちは2人とも穏やかな性格のように見えるが、勝負となると話が違った。向こうからテニスラケットが飛んできたこともあったし、どちらかが負けて一切口を利かなくなることもあった。ドイツ代表監督、ああ見えて大の負けず嫌い(笑)
―W杯カタール大会全体に期待することは。いろいろと特別な大会だが。
見る方にしたら、どんな大会になるのか、想像するのが難しい。カタールも知っているし、行ったこともある。でもあの場所でW杯があり、スタジアムもドーム型。札幌は確か02年の時ドームだった。クローゼが5ゴールを決めた。ドーム型はやっぱりちょっと違う。シャルケ(のゲルゼンキルヘン)も天井は閉まるが、ちょっと違うし。300万枚のチケットが売れたと聞いたが、観客の熱もどう盛り上がっていくのか。
短時間に多くのスターを見られるのは、大会がどこで開催されようと素晴らしいことだし、いいチーム、面白いチームも多い。とても楽しみだが、冬というのもちょっと不思議な感じがするし。
―始まってしまえばみんなサッカーに熱中するか。
私は日本とドイツ、あと好きな選手を中心に見る。メッシ(アルゼンチン)とかケーン(イングランド)とか。最大のスポーツイベントだし、内容の充実した大会になるように祈っている。
―サッカーのW杯はなぜこんなにも魅惑的なのか。
サッカーと言うスポーツの素性から来るものもあると思う。誰もがプレーすることができる。1人でも2人でも大きなグループでも、ボールさえあれば、あとは壁とか、公園でもいいし、とにかく手軽に楽しめる。そして短時間でうまくなることができる。ボールを触れば触るだけうまくなる。この、うまくなるうれしさがサッカーの大部分を占めていていると思う。ハンドボールは1人でやるのはちょっと難しい。冬季競技も。
サッカーは簡単に楽しめるし、エモーショナルなスポーツ。このエモーションが見ている人にも伝わって魅惑的なものになる。社会情勢など困難な時代でも、人間はサッカーを見て一瞬でも抱えている問題を忘れることができる。サッカーは娯楽として発展したと思う。試合を取り巻く歴史やストーリー、そして何より、芝の上で起きる魔法の数々。これが集約されるのがW杯だと思う。
しかも4年に1度。出場できること自体が奇跡に近いものだし、準決勝などへ勝ち進める選手は一握り。特別な挑戦だと思う。何度もW杯に出ている選手は、何年もの間、高いレベルで結果を出し続けてこそだし、この挑戦がスター選手の持つ輝きの源だろう。
―W杯を多くの人に楽しみにしてもらいたい。
今の若い人たちにとって、心待ちにできる楽しみなことがどれだけあるだろうと考える。昔の子どもたちはW杯の前にシールを集めたり、待ち切れない気持ちを膨らませたりしていた。日本でもサッカーについて多くの媒体で書かれている。情報は手に入るので、若者たちが彼らの「スター」を見つけて、活躍を追いかけてほしい。W杯はそういう選手を見つけるチャンスだと思う。私はコロンビアとの試合でバルデラマと対戦して「彼はすごい!」と感激した。同じように観客もそうやって好きな選手を発掘できる。これもW杯の素晴らしいところだと思う。アフリカの選手、アジアの選手、知らなかった選手も見ることができる。ドイツでも日本と対戦することで「あの選手、気に入った!」という選手を見つける人がいるはず。インターネットの普及で、そのお気に入りの選手をフォローすることも簡単だし。
私も今でもファンレターをもらうことがある。40年前に見た試合が忘れられないと。そうやって人々の記憶に何かが残るきっかけになる大会だと思う。
日本で監督?「是非行きたい」
―あなたのドリブルを忘れられない人は日本にもたくさんいると思う。
ジェフに行った時に、まだ自分の望むレベルでプレーできたことは良かった。頭よりハートでプレーできた。Jリーグは観客を魅了したし、ファンにとっては全て新しく、各クラブの南米風の太鼓や鳴り物の応援、ミサンガ、それらはすてきな光景だった。全く違うサッカー文化を体験できたし、日本の人々にとってもこれまでにない新しいものだったと思う。
―日本のサッカー文化がもっと発展していけばいい。
リーグのシステムは安定しているし、なでしこ(女子)もプロリーグになった。ドイツでも女子のリーグはかなり時間がかかったが、だいぶ発展してきた。あす、ウォルフスブルク(女子)はバイエルンと対戦するが、男子のスタジアムで15000枚のチケットが売れている。観衆20000、25000人に達するかもしれない。
93年、Jリーグが始まった時、女性ファンがたくさんスタジアムに来てくれた。その時から、女性もゆっくりとサッカーに興味を持ち出したという感じで、今や女性がサッカーをすることも当たり前になった。
―いまの役職。
ウォルフスブルクとフォルクスワーゲンで、ブランド・アンバサダーという役職。他にもいろいろなことをやっているが、例えば指導者講習会の講師とか。テーマはさまざまで、モチベーションについて、W杯で優勝するには何が必要か、難しいところで言うと、エゴとチームプレーのバランスについて。これは一人の人間の内側に二つの性格が共存していなくてはならなくて、例えば私はプレースタイルとしてエゴイストな部分もありながら、W杯はチームでしか勝ち取れなかった。そういうところを伝えている。他にはトレーニングで小さい子どもたちに関わったり、ウォルフスブルクは多くの所でスポンサーになったりしている。中国はもちろんフォルクスワーゲンにとって大事なパートナーで、イベントに参加し、いろいろな所に飛び回っている。
日本のサッカーも見ているが、やっぱり一番はスタジアムで見たい。クリスマスの頃にはいつも天皇杯の決勝を見に行っていた。2年間のコロナ禍はきつかった。前回は、3カ月前に10日間日本に行ったが、ビジネスビザを取らなくてはいけなかった。
―2年間遠ざかると、行きたい気持ちがさらに大きくなる。
コロナ以前は半年に1度は日本に行っていたが、2年行かなかったら、本当に、いつもの居場所、東京の渋谷や上野、銀座など、横浜の海の方とか、絶対に立ち寄る場所があるが、恋しくなった。
―本当に多くの人と関わっている。
ウォルフスブルクで試合があるときはVIPラウンジに来る方々といろいろな話をする。良い仕事だ。いつも何かをしていたいというのはあって、18歳の時から休むことなく、いつもサッカーと一緒で。時にはもっと長くその場所に居たいというところもあった。監督業では2、3年いたらまた他のところに行かなくてはいけない。
福岡は本当によい街だった。ずっと大好きな街だった。練習場へは海沿いの高速道路を走って。街中に立ち並ぶ露店のお店、とてもすてきな雰囲気だった。
―福岡の人たちは港町のメンタリティーの持ち主ですか。
人々はすごく余裕がある。横浜も30分ほど走れば海にも行けて、シーサイドパラダイスとか、ゆっくりできる。鎌倉から海沿いの道もよく通っていた。日本は良いところがあり過ぎて、どこに行っていいか分からない。この間は京都に行って、松山にも寄って、広島にももう一度行きたいし、選べない。仙台もいい思い出があるのでまた行きたい。沖縄も、北海道も良かった。
―また日本で監督をされる予定も?
是非行きたい。まだ分からないが。もう来年のコーチが決まる頃で、探さないといけない。他のアイデアもあるし、まだ決まっていない。可能性がある。いい通訳を探さないといけない。それは大切だ。アシスタントも。日本人のコーチはたくさん知っているから。
―日本語でも指導できそうだが。
日本人はしっかり説明してほしいと思う人が多い。サッカーは共通言語だが、今のサッカーは、時代は変わったから、もっと戦術のことも細かい事まで説明しなきゃいけない。ちょっと考えなきゃいけない。(インタビュー2022年10月21日実施。ドイツ・マンハイムにて)
(2022年11月18日掲載)