岸田文雄首相は4日、政務秘書官に長男で秘書の翔太郎氏(31)を起用した。各省から首相官邸に出向し、政策調整や省庁幹部による面会・報告時間の確保など「公務」を担う事務の秘書官に対し、政務秘書官は、官邸と与党との連絡や与党幹部、地元支持者らの面会、夜の会食の設定など、文字通り「政務=政治活動」を補佐する。歴代の政務秘書官には、衆院解散や閣僚の人選に関与するなど、党幹部以上の力を持った「大物」もいた。(時事通信解説委員長 高橋正光)
【目次】
◇知恵袋、小泉内閣の飯島氏
◇官邸主導を定着、安倍内閣の今井氏
◇福田氏は親子で就任、「帝王学」
◇首相と寝食、翔太郎氏
知恵袋、小泉内閣の飯島氏
政務秘書官は首相秘書官の筆頭格であることから、「首席秘書官」とも呼ばれる。そして、出身は(1)秘書(2)官僚(3)身内―の三つのタイプに分けられる。このうち、最も多いのが(1)の秘書出身だ。
当選回数が物を言う政界にあって、自民党の衆院議員は当選を重ねながら出世の階段を上り、競争に勝って最後に到達するのが首相・総裁のポスト。初当選から20年以上かかるのがほとんどだ。この間の相当部分を秘書として仕え、事務所を仕切り、首相とともに官邸入りして政務秘書官に就くケースだ。首相にしてみれば、長い付き合いから気心が知れ、安心して日常の政務を任せられる。中曽根康弘内閣の上和田義彦氏、小渕恵三内閣の古川俊隆氏、小泉純一郎内閣の飯島勲氏らが該当する。
このうち、上和田氏は、中曽根事務所の大番頭。与謝野馨、渡辺秀央、滝沢求の各氏ら、中曽根氏の秘書を経て国会議員に転身した政治家が多数いる中、上和田氏は三十数年、仕えた。中曽根氏の表も裏も知る「大物秘書」とされ、5年弱の中曽根内閣で、政務秘書官を務めた。古川氏も、小渕氏の早大の後輩で事務所の最古参。官房長官時も政務秘書官に就いている。
小泉氏は首相就任に伴い、歴代首相が国会や官邸内で歩きながら記者の質問に答えていた取材スタイルを、午前と午後の1日2回、立ったまま質問に答える「ぶら下がり」に改めた。発案者は飯島氏で、午後はカメラ撮影もOK。小泉氏の「武器」である発信力を生かすには、テレビ画面を通じて毎日、国民に語り掛けるのが得策と判断したとみられる。
また、組閣や内閣改造時に小泉氏は、人事案が事前に漏れた場合は差し替えることをちらつかせて情報を管理。閣僚候補にスキャンダルがないかの「身体検査」を徹底して行った。これら二つを取り仕切ったのも飯島氏。政権内の「知恵袋」的存在でもあり、郵政解散で大勝した小泉氏は、総裁任期の延長を求めず、5年5カ月で首相を降りたが、安定した政権運営が続いたのは、「飯島氏の力も大きい」との見方がもっぱらだ。
官邸主導を定着、安倍内閣の今井氏
官僚出身には、橋本龍太郎内閣の江田憲司氏(旧通産省出身、現衆院議員)、第2次安倍晋三内閣の今井尚哉氏(経産省出身)、旧民主党・鳩山由紀夫内閣の佐野忠克氏(同)がいる。
江田氏は、橋本氏の通産相秘書官(事務)を務め、同氏が村山富市氏の後任の首相に就くと、そのまま政務秘書官に異動した。橋本内閣は中央省庁の再編に取り組んだが、官僚の世界を熟知する江田氏がさまざまな知恵を授けたとされる。橋本氏は、政務以上に政策面で、江田氏を頼りにしていたようだ。江田氏は橋本氏の首相退任後、出身の通産省には戻らず退官。政界に転身した。
今井氏は、第1次安倍政権で事務の秘書官を務め、いったん経産省に戻り、安倍氏が首相に返り咲くと、政務秘書官に就任した。「官邸官僚」のまとめ役として安倍氏の信任が厚く、解散や内閣改造などの政治日程から、内政、外交の諸懸案に至るまで、積極的に進言したとされる。「一億総活躍社会」「働き方改革」など、政権が重点的に取り組むテーマ設定も主導。領土問題で進展はなかったが、2島先行返還にかじを切った対ロ外交も、官邸が取り仕切った。
衆参5回の選挙を乗り切り、7年8カ月の歴代最長の在任期間を誇った第2次安倍政権は、「官邸主導」の政策決定を貫いた。官房長官の菅義偉氏と政務秘書官の今井氏が官邸の両輪となり、官邸主導政治を定着させたと言える。その意味では、党幹部以上の実力者だった。
佐野氏は非自民連立の細川護熙内閣で事務の首相秘書官、鳩山氏は官房副長官で、共に官邸で勤務。その縁もあり、鳩山氏は政務秘書官に、佐野氏を指名した。
福田氏は親子で就任、「帝王学」
身内が政務秘書官に就いた例としては、福田赳夫内閣の福田康夫氏、福田康夫内閣の福田達夫氏、宮沢喜一内閣の宮沢洋一氏(現参院議員)がいる。赳夫氏の長男・康夫氏は丸善石油(現コスモ石油)を退職後、秘書を経て就任。その後、赳夫氏の地盤を引き継ぎ、1990年の衆院選で初当選し、2007年に首相に就任した。達夫氏は康夫氏の長男。三菱商事に10年超務めた後、康夫氏の秘書になり、政務秘書官に。康夫氏の政界引退を受け、12年の衆院選で初当選。岸田政権の発足に伴い、党総務会長に抜てきされた。
康夫、達夫両氏のその後の歩みを見れば分かるように、政務秘書官への登用には、後継者として帝王学を学ばせる意図があったのは明らか。達夫氏は総務会長を務めたことで、将来の首相候補の一人として認知された。親子3代での首相就任が懸かる。
一方、宮沢洋一氏は、父が広島県知事や参院議員を歴任した弘氏、叔父が喜一氏。旧大蔵官僚で、同省に籍を置いたまま宮沢内閣で政務秘書官に起用された。喜一氏の地盤を継いで、00年の衆院選で初当選。落選を経て、参院議員に転じ、現在は党税調会長を務めている。
身内が首相の政務秘書官になるケースは多くはないが、世襲議員が多い自民党にあって、閣僚の政務秘書官なら枚挙にいとまがない。安倍元首相は、父・晋太郎氏の外相秘書官を経験。昨年10月の衆院選で初当選した塩崎彰久氏は、父・恭久元官房長官の秘書官を、恭久氏は父・潤氏の総務庁長官秘書官を、それぞれ務めている。国会で野党が問題視したが、菅前首相は総務相時代、民間に就職する前の長男を秘書官に就けている。
このほか、近年は例がないが、自民党一党支配の時代には、親交のあった記者を起用するケースも多かった。池田勇人内閣の伊藤昌哉氏(西日本新聞)、佐藤栄作内閣の楠田實氏(産経新聞)、三木武夫内閣の中村慶一郎氏(読売新聞)らが該当する。
首相と寝食、翔太郎氏
首相秘書官は内閣法で規定された特別職の国家公務員。岸田首相は就任時、政務秘書官に元経産次官の嶋田隆氏、秘書の山本高義氏の2人を起用し、嶋田氏が筆頭格。山本氏は翔太郎氏と入れ替わる形で、事務所に戻った。このほか、各省から出向した事務の秘書官が6人おり、「チーム岸田」は総勢8人だ。
翔太郎氏は慶大法学部で政治学のゼミに所属。卒業後、三井物産を経て、20年3月から秘書を務める。首相の裕子夫人は、東京と地元広島とを行き来しており、翔太郎氏は公邸で首相と毎日、寝食を共にする唯一の家族。夫人の不在時は朝食の用意をし、首相に夜の会食の予定がない時は、夕食の準備をするのが務めだ。
立憲民主党は5日、衆院代表質問で「公私混同」と批判。岸田首相は「政権発足から1年の節目を捉え、適材適所の観点から総合的に判断した」とかわした。岸田首相の祖父、父も衆院議員を務めており、翔太郎氏は4代目。秘書官に任じ、官邸内に詰めさせるのは、自身の後継者として「帝王学」を学ばせたい思いもあるのだろう。
岸田内閣は発足から1年がたち、「成果」を求められる局面となった矢先に、報道各社の世論調査で支持率が急落、不支持が支持を上回る状況となった。歴代政権を見れば、逆風が吹き始めると内部の風通しが悪くなり、緊張も緩みがちだ。
チーム岸田の筆頭格・嶋田秘書官は就任前、首相との付き合いが濃密で長かったわけではない。政策面でけん引役になれても、与党への根回しにはおのずと限界がある。「大物秘書官」の飯島氏や今井氏のように、苦言を含め、首相にどこまで率直にものを言えるかは分からない。いわんや、各省からの出向組の事務秘書官は、「忖度(そんたく)」することは容易に想像できる。
物価高、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)、新型コロナウイルス対策、中間層を中心とした所得の引き上げ、防衛力の強化と財源…。年末に向け、成果・結論を迫られる難題が山積している。対応を誤れば、支持率は下がり続け、首相の求心力低下は避けられない。
身内の政務秘書官の強みは、忖度なしにものが言えること。「首相秘書」から「首相秘書官」に肩書が変わることで、拠点が議員会館から官邸に移り、公的な会議にも堂々と出席できるようになる。首相の日程づくりに関与し、政策決定の場に立ち会う機会もあるだろう。
「厳しい意見を聞く姿勢こそ、政治家岸田文雄の原点」。首相は所信表明演説で、このことを改めて肝に銘じながら職責を果たすと約束した。他の秘書官や閣僚、党幹部からは上がらないような情報、国民、官邸や与党内の厳しい声。これらを首相に届ける。身内の首相秘書官の重要な役割ではないだろうか。
(2022年10月7日掲載)