日本を代表する繁華街はどこ? そう尋ねたら、きっと多くの人が東京・銀座と答えるでしょう。江戸時代初期に銀貨の鋳造などを行う「銀座役所」を置いたことが地名の由来。明治以降は大火や震災、戦災で壊滅的な被害を受けながらもそのたびに復興し、伝統と新しいもの、ハイブランドと庶民的なものが共存する中に独特の気品を保って発展しました。この魅力的な街にまつわる話を「銀座探訪」でお届けします。第1回は、歌舞伎座です。
かつて木挽町と呼ばれた東銀座の一角に、瓦屋根の風格ある姿を見せる歌舞伎座。開場を告げる太鼓の音が流れ、正面玄関の唐破風をくぐると、独特の華やぎに包まれる。江戸時代には芝居小屋が集まり、見物客でにぎわった地域の歴史を今につなぐ歌舞伎の殿堂。松竹で長く歌舞伎の製作・興行に携わり、現在は歌舞伎座の持ち主である株式会社歌舞伎座の社長を務める安孫子正さん(74)は「歌舞伎は現代の演劇を代表するジャンルの一つ。歌舞伎座はその本拠地として歌舞伎がきちんと行われる場を提供していく」と力を込める。
10年目の銀座のランドマーク
現在の歌舞伎座の建物は「5代目」になる。第一期歌舞伎座は、歌舞伎の近代化を目指す演劇改良運動の拠点として1889年に誕生。外観はレンガ造りの洋風、内部は日本風で、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎ら明治の名優によるこけら落とし公演が行われた。1911年に和風建築に改修されたが漏電で21年に焼失。24年に再建された第三期も東京大空襲に遭う。焼け残った躯体(くたい)を基に建て直され、51年に開場したのが、戦後から平成の歌舞伎を育んだ第四期歌舞伎座だ。
2013年、「イザ、ギンザ、カブキザ」のキャッチコピーとともに開場した新しい劇場は、第四期歌舞伎座の外観を受け継ぎながら29階建てのオフィスビルを背後に併設した銀座の新たなランドマーク「GINZA KABUKIZA」として生まれ変わった。客席はゆったりとして見やすくなり、舞台機構なども進化。文化体験や交流のためのイベントスペース「歌舞伎座ギャラリー・木挽町ホール」が設けられ、地下鉄の東銀座駅直結の「木挽町広場」には江戸情緒いっぱいの土産物が並ぶ。この地下広場は災害時に帰宅困難者らを収容する防災拠点にもなる。
新開場から来年で10年。この間、若い俳優が育ち、新作づくりも活発化した。「歌舞伎座が歌舞伎の本拠地であるという認識が昔に比べて一般の人々にも確実に広がった。歌舞伎俳優が他の仕事でも評価を得て、歌舞伎の人気の土台を広げている」。そう語る安孫子さんは昨年、松竹の副社長から歌舞伎座の社長に転じ、新たな立場で歌舞伎と歌舞伎座に関わることになった。
劇場の「大家」として
松竹と歌舞伎座の関係はちょっと分かりにくい。松竹は京都の芝居小屋の売店の売り子から身を起こした双子の兄弟、白井松次郎、大谷竹次郎が1895年に劇場経営に乗り出したのが始まり。大谷はその後、東京に進出して歌舞伎座を傘下に収め、歌舞伎を大きく発展させた。戦後、歌舞伎座が再建された際に設立されたのが株式会社歌舞伎座で、松竹は同社の大株主であるとともに、同社から劇場を借りて公演を行っている。
「俳優や音楽家、舞台スタッフと関わりながら歌舞伎を製作して中長期的に運営していくのは松竹の仕事。歌舞伎座の持ち主としては、それを成し遂げられるように舞台や照明その他の補修を含めて劇場をきちんと管理する。仕事の内容は全然違いますが、歌舞伎の将来と関わる意味では一心同体です」と安孫子さん。これまでの経験を踏まえ、今は、歌舞伎を含む舞台芸術を見据えた新たな試みも構想している。
その一つが、「歌舞伎サミット」。全国各地に今も地歌舞伎や古い芝居小屋が残るが、その関係者らに歌舞伎座に集まってもらうのだ。「地歌舞伎や芝居小屋が存続していくのは大変。それをアピールしていくこともできるから」。さらには、能も含めた伝統芸能に加え、宝塚やOSK日本歌劇団の人も出るようなきらびやかな「歌舞伎座名人会」。松竹と組んで「歌舞伎座ギャラリー・木挽町ホール」で歌舞伎の普及・啓発も仕掛けたいという。
運命の出合い
安孫子さんの歌舞伎との出合いは中学時代。歌舞伎研究をしていた演劇部顧問の影響で興味を持ち、卒業目前の1963年2月、歌舞伎座の夜の部で新作「徳川家康」を観劇した。その後、昼の部の「俊寛」「靭猿(うつぼざる)」「法界坊」も見て、「歌舞伎って、新作も古典も面白い」と、翌月も歌舞伎座へ。そして、「修禅寺物語」で主人公の夜叉王(やしゃおう)を演じていた二代目市川猿之助に魅了された。
ところが二代目猿之助は同年6月に死去。5月に孫の市川團子が三代目猿之助(現・市川猿翁)を襲名し、自身は市川猿翁(初代)と名を改めたばかりだった。一般向けの通夜に行くと、遺族は「学生さんが来てくれた」と若いファンの弔問を喜んだという。「お参りをして帰ろうとしたら、死に顔を見せてくれたんです。立派なお顔でした」。三代目猿之助にも「何かあったら歌舞伎座の楽屋にもいらっしゃい」と声を掛けられ、運命に導かれるように歌舞伎にのめり込んだ。「歌舞伎役者はみんなうまくて魅力的。演技力のすばらしさに感銘を受けました」
歌舞伎は様式性に富んだ演劇だ。「例えば、『女殺油地獄』は殺人の場面で拍手が来る。こんな演劇って他にありますか。殺しは現実だけど現実ではない。現実ではないけど現実を表現している。虚実皮膜。歌舞伎の演技、演出方式は時代や世の中の真理を超越する力を持っている。現代でも日本人の精神性の中で育まれた独特の演出、演技方式を生かした新しい演劇を作っていけるのではないかと思います」
歌舞伎製作の現場で
歌舞伎研究者を志した安孫子さんはその後、縁あって松竹に入社。1978年から5年間在籍した歌舞伎座宣伝部では、低迷期の歌舞伎興行の現実を経験した。
79年4月に古典の名作「新薄雪物語」が十七代目中村勘三郎、八代目松本幸四郎、六代目中村歌右衛門らによる豪華配役で上演された時のこと。「最高の『新薄雪物語』だったのにガラガラ。支配人に宣伝が悪いからだと言われたけれど、当時は歌舞伎座で8カ月しか歌舞伎が上演されていなかった。遅番の時の仕事は招待券作り。1枚に2席書いて配ってもお客さんが来ない。古典が素晴らしいだけではだめだと実感しました」
というのも、同じ月の明治座では三代目猿之助が、仙台藩のお家騒動を題材にした「伊達の十役」を復活上演して大ヒット。3カ月後には歌舞伎座でも上演されて人気を集めた。
83年に歌舞伎座担当のプロデューサーになると、昭和から平成の歌舞伎を育てた故永山武臣会長の下で歌舞伎の製作に奔走した。毎月、出し物と主な出演者が決まると、その他の配役を決め、稽古割りを作り、舞台稽古を経て初日を迎える。
「ひと月に1度来る『悪夢の日』が初日でした。永山さんが監事室(舞台進行を確認する客席後部の小部屋)で芝居や道具などに半端じゃない注文をされる。対応するのは本当に大変だったけれど、『より良いものを作れ』ということを教えられました」
團十郎襲名への期待
歌舞伎が人気を盛り返したきっかけは、1985年4月から3カ月行われた十二代目市川團十郎襲名披露興行だ。65年に十一代目團十郎が56歳で亡くなって以来20年ぶりの江戸歌舞伎の大名跡復活。「十一代目の声と陰りのある演技が大好きだった」と話す安孫子さんも駆け出しのプロデューサーとして出し物や配役を決める場に立ち会った。「團十郎襲名が社会現象になって、前売りからすごい人気でした。世の中が動いてきたと感じました」
同じ85年の6月には江戸時代に建てられた香川県琴平町の金丸座での歌舞伎公演(こんぴら歌舞伎)が始まり、翌年には新橋演舞場で三代目猿之助によるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が初演され大入りに。その後、90年に歌舞伎座で「八月納涼歌舞伎」が復活して歌舞伎の通年興行が実現し、94年には東京・渋谷のシアターコクーンで中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)らによる「コクーン歌舞伎」も始まった。
「猿之助さんは、歌舞伎が高尚化してしまったために行われなくなった宙乗りや早変わりといった歌舞伎の持つ原点の面白さとドラマ性を重視した作品で絶賛を浴びました。勘九郎さんは古典を今の視点で作り直そうと試みた。歌舞伎は現代に生きる古典だということを世の中にアピールしたのです」
コロナ禍で歌舞伎公演も大きな影響を受けたが、11月には延期されていた「市川海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿襲名披露」が歌舞伎座で始まる。2013年に歌舞伎座の新開場直前に亡くなった海老蔵の父、十二代目團十郎はおおらかな芸風と実直な人柄で愛された。安孫子さんは「代々の團十郎がそれぞれの時代を背負い、歌舞伎を引っ張って来た原動力であることは間違いない。ただ、團十郎の権威というものは最初からあるのではなく、代々の團十郎が自分を磨いて作り上げたもの。海老蔵さんにも、そういう道を一から歩み始めてもらい、歌舞伎界をまとめ上げていく團十郎であってほしい。みんなに敬われる存在になることで権威もついてくるわけだから」と期待。歌舞伎の新たな時代が動きだす。
(時事通信編集委員・中村正子、カメラ・森和也 2022年10月20日掲載)