師弟で二人三脚、礎築く
プロ野球の中日と阪神で活躍し、米大リーグのカブスでも実績を残した福留孝介外野手(45)が、今季まで日米24年間に及んだプロ生活の幕を下ろした。日米通算で2450安打、327本塁打を記録するなどした名選手には、「師」と仰ぐ野球人がいる。佐々木恭介さん(72)だ。近鉄時代の1978年に首位打者に輝き、引退後は近鉄の監督、西武や中日などで打撃コーチを務めた。今は奈良県にある社会人野球のクラブチーム、大和高田クラブを指揮している。
近鉄の監督時代、大阪・PL学園高3年の福留がドラフト会議で重複指名を受けた際、抽選で交渉権を獲得して「ヨッシャー!」と気勢を上げたことはよく知られている。しかし、福留は入団せずに社会人野球を経て中日入り。運命の糸はつながり、佐々木さんが後年、中日のコーチとして若い福留を指導。飛躍へのきっかけをつくり、大打者の礎を築いた。2人は今も親交が深い。福留の現役引退に際して佐々木さんが取材に応じ、「二人三脚」の歩みを語った。(時事通信名古屋支社編集部 浅野光青)
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9月23日、中日―巨人23回戦の試合後に行われた引退セレモニー。バンテリンドームナゴヤに集まった3万5000人のファンの前で、福留は恩師への感謝の言葉を口にした。
「自分の野球人生がスタートしたこの場所で、ファンの皆さまの声援に包まれてユニホームを脱げる。本当に幸せ者。24年間素晴らしいチームメート、指導者の下プレーさせていただいた。その中、佐々木恭介コーチと出会い、打撃を一から作り直そう、と。そう言われて、毎日バットを振り続け、朝起きる時には手がバットの形をして固まったまま。そんな日々を繰り返しながら、松井秀喜さんに勝って初めて首位打者を獲得した時、この世界でやっていける自信を持てたのを思い出します」
佐々木さんとの「再会」
福留は鹿児島県東部の海に面した大崎町で生まれた。山にも囲まれる自然豊かな地域。そこからプロを志すきっかけとなったのが、中日がかつて宮崎県で実施していた串間キャンプだ。幼少期に父親に連れられて大崎町から数十キロの距離にあるキャンプ地で、プロの練習にくぎ付けとなった。その中でも「ミスター・ドラゴンズ」立浪和義(現監督)に憧れを抱き、数年後に立浪の母校、PL学園高に入学。春夏の甲子園を沸かせ、世代屈指の打者として名を上げた。1995年のドラフトでは、高校生としては今でも最多に並ぶ7球団(中日を含む)から1位指名を受けた。
交渉権を引き当てたのが、近鉄で監督を務めていた佐々木恭介さん。赤いふんどしを締めて臨み、くじを引いた。福留は中日への思いを捨てきれずに指名を拒否。日本生命で社会人野球に励んだ後、99年に中日に入団した。
1年目は132試合で打率2割8分4厘、16本塁打、52打点。期待通りの活躍をしてリーグ優勝に貢献した。だが、その後の2シーズンは打率2割5分3厘、2割5分1厘。ポテンシャルを発揮できずにいた。
3年目を終えた2001年秋。山田久志新監督は福留を一皮むけさせるため、西武のコーチを退任したばかりの佐々木さんを打撃コーチに招聘(しょうへい)。ドラフトから6年の時が経っていた。
「再会」の時を、佐々木さんは今でも覚えている。関東で行われた秋季教育リーグの試合。バットを寝かせて構える「ちんけな」打撃フォームを見て、ショックを受けた。「ほかの選手を圧倒していた高校時代の面影が全くなかった」。なぜそういう打ち方なのか。本人に聞くと、以前にコーチからバットの出方を考えるよう指導されたといい、「(高校時代の感覚は)まるっきり忘れました。感覚がありません」。そう話す福留の目を見て、佐々木さんは「元気がなかった。迷っている感じがした」と思ったという。
フォロースルーが自然に大きく取れるスイングを取り戻すため、佐々木さんは「一から打撃を作り直そう」と提案した。「その代わり、俺の言うことを一言一句を絶対に聞き逃すなよと。先輩とかいろんな人が来るけど、聞きたくなければ一切聞かなくてええと。聞いた振りをして聞き流せばいい」。そして、力強い言葉でこう約束した。「俺の言うことを2年聞いたら絶対に2億(円)を取れる選手にするから」
一日3000スイングで開花
静岡県浜松市での秋季キャンプから指導が始まった。「バットを傘のように自然に立てて持つんだ」。軸足の使い方や打つ際のステップの仕方まで、細かく教えた。「ただ、数を振らないと、なかなかできへん」。一日3000スイングという過酷なノルマを与えた。
当時の山田監督からは「つぶれないか」と心配されたこともあった。それでも、福留には耐えるだけの体の強さがあった。
キャンプでは、練習の最後に800球のロングティーを打たせた。「みんなふらふらになって、まともに振れない選手も多いなか、福留は800球目まで、『ぴゃっと』フルスイングで振り終えた」と佐々木さん。弱音も一切吐かず、ケアもまめの手入れで済む程度だったことには驚いたという。
春季キャンプでも同様の日々が続く。「言うことを一言一句聞き逃さず、一生懸命ついてきてくれた」
翌シーズン、その努力が実を結ぶ。4年目を迎えた福留はオープン戦から好調で、シーズンでも安打を量産。打率3割4分3をマークして、三冠王を狙っていた松井秀喜(巨人)との首位打者争いを制し、初のタイトルを獲得した。
持ち前の選球眼に軸のぶれないフォロースルーの大きなスイング。才能が開花した。打撃に専念するために遊撃手から外野手に転向したことも含め、福留自身も「その時(02年)のシーズンは自分の中でも転機」と話す。
佐々木さんは03年限りで退団。その後も福留との縁は続く。解説者としてナゴヤドーム(現バンテリンドームナゴヤ)に足を運んだ際に、誰もいない部屋でこっそり打撃指導したことがあった。08年に福留がフリーエージェント(FA)でカブスに移籍した際は、「臨時コーチ」も務めた。その米国で、印象に残っているシーンがあるという。
「誰よりも先にグラウンド行って、19時試合開始で11時過ぎくらいにはいるんですよ。8時間も前に」。ジョギングに始まり、次にウエート、昼食を挟んで打撃練習前にダッシュを繰り返して、フリー打撃…。試合後にまたウエートをしてから最後にケアをして、帰宅する。
「体内時計でしっかり時間が刻まれているのかというくらい同じペースでやりますもん。調子が悪い時は早めに行って室内で打撃練習するとか。黙々と自分がやらないといけないことを消化していた。僕だったらできへん。きょうはしんどいからええか、となるわな」。笑いながら、そのすごさを思い返していた。
福留は5シーズン米国でプレーした後、13年に日本帰国。その後佐々木さんが大和高田クラブの監督に就任すると、毎年オフに自主トレーニングで訪れるようになった。
受け入れられなかった知らせ
プロ生活24年目を迎える今年もそうだった。「足は動くし、球も投げられる」。佐々木さんには、まだやれるという確信があった。そもそも、福留にはイチローが引退した年齢(45)以上は現役を続けてほしいと、以前から伝えていた。「孝介の目指す選手はイチローくらいしかいない」。だから、せめてあと1年は続けてほしいと思っていた。
一方の当人は不振にあえいだ。史上最年長で開幕戦のスタメン出場を果たしたが、直球にさし込まれるなどして25打席安打が生まれない。5月26日にようやく初安打を放ったものの、交流戦終了後の6月中旬、2軍に降格した。
チームは下位に沈み、1軍では若手が優先的に起用されていく。そのなかで、球界最年長の45歳に再チャンスは訪れなかった。子供の年齢と同じくらいの選手と接するうちに彼らを応援する気持ちが強くなり、身を引くことを決めた。
9月初め。引退会見の1週間ほど前、佐々木さんは電話で引退を知らされた。「一番嫌な報告が来たな、と言った程度。ご苦労さんとか何も言わなかった」。成績などを考えたら引退の可能性も分かっていたが、すぐには現実を受け入れられなかった。
引退試合はテレビで見た。代打で出た福留は、直球をフルスイングしたが力のない二飛に終わった。「一番のホームランボールだったが、詰まったな」と佐々木さん。
その後のセレモニー。スピーチする福留の口から自分の名前が聞こえた。「大号泣だった」。こう続ける。「個人名を出すようなタイプではないんだけど、あえて私の名前を出してくれたのかな。びっくりしたし感謝しかない。いい夢を見させてもらって、出会えてこっちもありがとうと言いたい」。しみじみと言った。
今後は未定という福留について、「引き出しは多いし、すごい指導者になると思う。あまり時間を空けずに球界に恩返ししてほしい」と願う。今でも家族ぐるみで付き合いがあり、年に1度はゴルフをする仲。まずは、ゆっくり語り合う時間が増えることを楽しみにしている。
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福留 孝介(ふくどめ・こうすけ) 1977年4月26日生まれの45歳。鹿児島県出身。大阪・PL学園高から日本生命を経てドラフト1位で1999年に中日入り。2006年には最優秀選手(MVP)に選ばれるなど、3度のリーグ優勝に貢献。08年にフリーエージェントで米大リーグのカブスに入団し、その後インディアンス(現ガーディアンズ)などでもプレー。13年に阪神に移籍し、16年に日米通算2000安打達成。21年に中日に復帰した。首位打者2度、ベストナイン4度、ゴールデングラブ賞5度。アトランタ五輪とアテネ五輪に出場し、06年と09年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)代表。182センチ、90キロ。野手だけでなく投手にも助言を送るなど、面倒見の良さから慕う後輩は多い。
佐々木 恭介(ささき・きょうすけ) 1949年12月28日生まれの72歳。兵庫県出身。兵庫・柏原高から新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)を経てドラフト1位で72年に近鉄入団。78年に打率3割5分4厘で首位打者に輝く。79年のリーグ初優勝、80年の連覇にも貢献した。2桁本塁打は5度マークし、82年に引退。通算1036試合に出て883安打、105本塁打。その後は近鉄で監督、阪神や西武、中日でコーチを務めた。2016年に大和高田クラブの監督に就任し、全日本クラブ選手権で2度の優勝に導いた。西本幸雄と長嶋茂雄が「師匠」。
(2022年10月17日掲載)