高橋孝雄(慶應義塾大学教授 医学部小児科学)
子どもを育む二つの力
最初に、子どもを育む二つの力、遺伝の力と環境の力についてお話しします。これらは、人の一生を通じて、互いに影響し合いながら健全な心と体をつくり、維持しています。
妊娠中には、遺伝子によってあらかじめ決められた設計図に沿って体が正確に形作られ、そこに機能が宿っていきます。その過程はとても緻密で堅牢なものなので、たとえ胎児環境が少々変動したとしても、赤ちゃんはお母さんのお腹の中ですくすくと育っていきます。生まれた後にも遺伝の力は強く作用し続け、劣悪な環境に遭遇したとしても、子どもたちはたくましく成長を遂げることができるのです。遺伝の力とは、変わらず受け継がれること、不変であることによって子どもたちを守る力です。
環境の力は変化に富み、流動的であることによって、子どもの成長を包み込むように促す力です。温かい母性と強い父性に守られた家庭環境、豊かな教育・社会環境は、強い追い風となります。一方、貧困や虐待、そしてインターネットを舞台とした不適切な育児環境など、重大な負の環境要因、つまり逆風も後を絶ちません。そのような状況が長く続くことで子どもたちの心身の健康が危険にさらされることがあります。
さて、子どもを育むのに“良い環境”とは何でしょう。それは、適度な刺激に満ちた環境ではないでしょうか。適度な運動、適度な緊張、適度な空腹感、そして季節の移り変わりに伴う気温の変化など、五感に訴えるリアルな刺激は無数です。良い環境とは、変化に富み、時に予測不能で、適度な刺激をわれわれに与えてくれるものです。子どもの成長にとっても、適度な刺激を受け続ける環境が不可欠です。
無言で孤立したバーチャル・コミュニケーション
さてここで本題、インターネット空間という環境が子どもたちに与える影響について考えてみたいと思います。ネットは間違いなくわれわれの生活を豊かにします。しかしそれでもなお、ネットの弊害を見過ごすことはできません。どんな弊害があるのか。まずは「無言化」「孤立化」という現象、次いで「実体験の減少」という問題、そして「バーチャルであることの功罪」についてお話ししましょう。
ネット上で過ごす時間が長くなると、人はどうしてもしゃべらなくなります。つまり「無言化」。また独りでいる時間が長くなります。つまり「孤立化」。いまや多くの人々がSNSなどを介して、無数の“他人”とバーチャル空間でつながっています。そして、コミュニケーションがとれていると錯覚しているのです。無意識のうちに日常から本当のコミュニケーションが抜け落ちてきているのではないでしょうか。
対面とは異なり、オンライン・コミュニケーションは五感のすべてを用いているわけではありません。分かりやすい情報が脳をじかに刺激するようなものではないでしょうか。これは、生物学的にみて異常な状態です。こうした状況を放置しておくと、子どもたちの五感がいつしか麻痺(まひ)していく気がするのです。
実体験の欠如した環境の恐ろしさ
環境中のさまざまな刺激がほどよく働きかけると、遺伝子の働きにリズム感がうまれます。遺伝子の配列に組み込まれた“不変のストーリー”に微妙な変化、つまり“揺らぎ”がもたらされるのです。生活習慣のように長い時間をかけて起こる変化もあれば、昼夜のリズムのように穏やかに繰り返される波のような変動もあります。さらに、怒りや喜びのように瞬間的に湧き上がる現象もあります。その時々の適度な刺激の存在によって、遺伝子に刻まれたストーリーはダイナミックに変化するのです。教育やトレーニングがよい例です。程よい刺激が加わることで、遺伝子の働きが少しずつ修飾され、体や心の働きの変化として表れるのです。環境がその力を発揮して子どもを育むためには、実際にその環境を体験すること、つまり実体験が大前提なのです。
実体験とは、多種多様な出来事を“身をもって”体験することです。実体験には失敗が多く含まれていることもポイントです。実体験を通じて、子どもたちは健全な「想像力」を手に入れます。そして、経験したことのない事態に直面しても、自ら考え上手に対応できるようになります。また、自分がしようとしていることが相手にどのような結果をもたらすか、事前に感知することができるようになります。子どもたちは実体験を通じて想像力を磨き、その成果として「共感力」つまり、人の気持ち、立場を自らのことのように想像する力を身に付けていくのです。
正しい想像力、豊かな共感力は、実際に体験を積み重ねる以外、決して培うことのできないものです。たとえば実生活で遭遇する子ども同士のいざこざはまさに「不測の事態」です。そういった出来事もまた適度な刺激として子どもの人生に「揺らぎ」を与えるものなのです。不意に予測不能なことが起こる、戸惑い迷う、悩む。そのような経験が子どもの成長を支えるのではないでしょうか。
インターネット社会、バーチャル空間は実体験の欠乏した世界。子どもたちがそんな仮想空間で多くの時間を過ごすことの最大のリスクは、実体験の減少です。そんな時代に子どもを育てているのです。それなりの覚悟と対処が必要だと感じませんか?
非現実体験に埋め尽くされる環境の危うさ
一部のネットゲームが、人間関係に取り返しのつかないダメージを与えているのではと心配です。人を殴るとポイントがつく。人を殺しても、こちらが殺されても、ゲームオーバーでリセットすると全てなかったことになる。これらバーチャル空間での出来事は現実世界では決して起こらないことばかりです。だからバーチャル体験は面白い。しかし、十分に実体験を積んでいない子どもたちにとっては、仮想空間と現実の境界が不明瞭です。ぼくは実際、人は死んでも生き返ると信じている子どもに出会ったことがあります。
リセットボタンを押せば全てをやり直せる仮想空間で、現実にはあり得ない経験を際限なく楽しむことができる時代です。これでは、丁寧に人間関係を築いていくことを面倒に思う子どもがいてもおかしくない。そんな子どもたちは、現実の世界から逃げ出して、ますます仮想空間でのバーチャル・コミュニケーションにのめり込んでしまうかもしれません。
“おもしろうて やがて悲しき ネットかな”
インターネット空間は、心地よい孤独を手に入れ、無言でコミュニケーションが楽しめる気軽な世界。現実には起こりえないことも自在に“体験”し、わだかまりはすぐにリセット、ブロックできる世界です。なんと魅力的なことでしょう。そんな世界、そんな時代に、大人も子どもも生きているのです。われわれ大人は子どもたちの代わりに、インターネット空間の便利さ、楽しさの背後にあるリスクに少しは思いをはせる必要があるかもしれませんね。(2022年10月21日掲載)
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高橋 孝雄(たかはしたかお)慶應義塾大学教授(医学部小児科学)。1982年慶應義塾大学医学部卒業後、米国に渡り、ハーバード大学、マサチューセッツ総合病院小児神経科などの勤務を経て94年帰国。慶應義塾大学医学部小児科学で小児神経学の分野を担当。小児科学会会長、小児神経学会理事長を歴任し、現在は国際小児神経学会理事を務める。現在の主な研究領域は、脳の発生と子どもの発達など。最近の著書には、『小児科医のぼくが伝えたい最高の子育て』(マガジンハウス 2018)がある。