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塚原久美「日本の中絶」(ちくま新書)【今月の一冊】

2022年09月22日12時00分

中絶サバイバーが明らかにする、女性の人権侵害

デボラ・フェルドマン著、中谷友紀子訳「アンオーソドックス」(辰巳出版)【今月の一冊】

 人工妊娠中絶を主たるテーマにした一般書は、本書が多分初めてだろう。日本の中絶件数は、年間約14万5千件(2020年度)もあるが、ほとんどの経験者がそれを隠し、信頼できる医療情報も絶対的に不足している。

 著者の塚原久美さんは「中絶経験者は中絶そのものが終わってからも『中絶のスティグマ(負の烙印)』を体験し続けている」という。日本では数少ない、カミングアウトした中絶サバイバーだ。(松原慶 著述業)

 1971年、中絶が非合法だったフランスで、作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールやフランソワーズ・サガン、女優のカトリーヌ・ドヌーブらが中絶体験を公表し、中絶合法化にかじが切られた。いつの時代、どこの国でも、当事者が声を上げることには社会的意義があり、同じ立場の女性たちへの勇気付けにもなるだろう。

 塚原さんは、40年前、大学生だった21歳の頃、人生最初の妊娠で中絶し、ほどなく2度目の妊娠で流産する。30代終わりに新たなパートナーとの出会いがあり、3度目の妊娠で娘を出産した。中絶体験に振り回され悩んだがゆえに、娘が大人になるまでに日本の中絶事情を変えたいと一念発起、大学院に入って中絶問題の研究に取り組み始めて20年になる。

 癒えない心の傷と向き合い、「自分の中にあった中絶に対する罪悪感と苦しみは、自分が生きている社会の側からくる『中絶への罪悪視』が内面化されたものだったと確信する」。

 日本には、女性や子どもが男性の所有物扱いだった、家父長制の敷かれた明治時代に制定された刑法堕胎罪が、いまだに存在し影を落とす。母体保護法の下、中絶は可能だが、配偶者同意を必要とし、中絶をするか否かは医師の裁量に委ねられる。「配偶者の同意が得られず、複数の医療機関をたらい回しにされたり、望まぬ出産に追い込まれたりするケースが相次いでいます」という。

 水子供養は、1970年代、保守的な思想を持つ一人の僧が水子供養のための寺を建立し、オカルトブームや、週刊誌の水子供養寺とのタイアップ記事で喧伝(けんでん)され、“水子のたたり”と女性たちの不安や罪の意識があおられ食いものにされてきた。

 塚原さんは研究を重ねるうち、メンタルケアの必要性を痛感して、同じような苦しみを抱えるなかまたちの力になりたいと、臨床心理士や公認心理師の資格も取得。“中絶ケアカウンセラー”という独自の肩書きを名乗り、支援に携わる。

 医療技術の進展によって、中絶方法は、国際的には比較的心身への負担が少ない経口中絶薬が主流になっている。妊娠早期の薬による中絶は、「重い月経とそっくり」だそうで、中絶のイメージも塗り替えられている。

 一方、日本では、WHO(世界保健機構)の中絶ガイドラインで、合併症が多く「廃れた方法」(2012)、「使用しないこと」(2022)とされた、器具で胎児をかき出す掻爬術(D&C)が、今も汎用(はんよう)されている。医療保険がきかない自由診療で、世界的にみて料金がずばぬけて高い。

 中絶薬は、2021年12月に厚労省へ承認申請が出され、許可待ちの状態だ。科学的に安全性が立証され、国際産婦人科連合(FIGO)は、中絶薬をオンライン診療で処方し自宅で服用させる“自己管理中絶”を推奨する。中絶薬の世界の平均卸値は700円台だ。しかし、日本では医療関係者の発言から、入院等の条件付きで、中絶手術並みの高額になることが懸念されている。

 望まない妊娠を招くのは、乏しい性教育や避妊教育にも原因がある。1999年に男女共同参画社会基本法が制定されると、教育現場などで実践が活発化した。だが、2005年、自民党のプロジェクト・チームによって、性教育やジェンダーフリー教育への激しいバックラッシュ(反動)が起こり、大幅に後退している。

 避妊方法にも問題がある。国内で使える選択肢は、海外に比べて少ない。装着ミスや破れなど失敗率の高い男性コンドームが日本では一般的で、より成功率が高い避妊ピルはあまり普及していない。避妊ピルも、避妊に失敗した性交後72時間以内に飲む必要のある緊急避妊ピルも、日本では医師の処方箋が必要で医療保険の対象外で高額だ。英国など海外では、避妊はもちろん中絶も健康保険が効き、実質無料の国が結構ある。

 塚原さんは法律や医療専門書まで熟読し、英語力を駆使して世界の中絶情報をリサーチ、専門家へのインタビューも行い、精魂を傾けて問題を深堀りしてきた。本書でなければ、知り得なかった情報も多い。日本の中絶事情の立ち遅れぶりに、改めて驚かされる。

 評者は、米映画「セイント・フランシス」(2019)や、石原燃さんの戯曲「彼女たちの断片」(2022)を観て、自宅で中絶薬を飲み、望まない妊娠から解放されて安堵(あんど)し、自己肯定感も高まる女性たちの姿に、鮮烈な印象を受けた。作品中のように、女性のリプロダクティブ・ヘルス&ライツ(性と生殖に関する健康と権利)が実現し、産むか産まないかを自己決定ができる社会になるために、一人でも多くの人に、本書を一読してほしい。

(2022年9月22日掲載)

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