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対中ODA「戦後賠償の代替」 大平元首相、贖罪意識強く 森田一氏インタビュー【日中国交正常化50年】

2022年09月29日14時00分

 50年前の日中国交正常化に当たり田中角栄首相の背中を押し、対中交渉を担った陰の立役者は外相の大平正芳元首相だった。大平氏の娘婿で、秘書官として訪中にも同行した森田一・元運輸相(88)に話を聞いた。大平氏が首相時の1979年に開始した対中政府開発援助(ODA)は、「戦後賠償の代わりだった」と語った。(肩書は当時)

【日中国交正常化50年】角栄氏、「一命賭して」北京へ 台湾断交も、現状維持訴え 田中真紀子氏インタビュー

【目次】
 ◇「竹入氏メモ」で確信
 ◇尖閣「棚上げでない」
 ◇不快感示した米国

「竹入氏メモ」で確信

 ―ニクソン米大統領の電撃的な訪中発表が日中国交正常化の契機に。

 そうです。だが米国が動く前から大平の頭には中国があった。歴史の流れの中で(台湾ではなく)中国が中心になると。ニクソン・ショックは「そういうこともあり得ると思っていたら、起きたな」という感じでした。

 ―田中氏は72年の総裁選の頃から日中が頭に。

 そうです。佐藤(栄作)さんが本当は(日中を)やりたいと思っているのを私は横で見て分かっていたが、中国は佐藤政権では駄目だと相手にしなかった。田中内閣の発足直後に、周恩来首相から9月25日に来ませんかと言ってきた。

 ―当時国内には台湾派が多かった。

 そう。だから角さんは訪中を渋った。「これで失敗したら辞めなきゃいかん。7月に首相になって9月に辞めるなんてあまりにかわいそうじゃないか」と。「決断の角さん」もなかなか決断できず、大平が説得したんですよ。大平は世界史的に見ても時機だと思っていた。特に(先に訪中した)公明党の竹入(義勝)委員長の(中国側の戦後賠償請求権放棄などの意向を確認した)メモは大きかった。これで大平は自分の考え通りでいいという確信が持てた。

 ―この訪中で決着する見通しはなかった。

 正直分からなかった。あれだけぶっつけ本番の会談は外務省史上なかったから。

尖閣「棚上げでない」

 ―交渉は難航したか。

 最ももめたのは、戦争の終結をどう表現するかだった。中国はこの交渉が妥結したら戦争の終結だと言うが、日本としては台湾と(52年に)日華平和条約を結び戦争は終わったことになっている。中国側が日本の立場をなかなか理解せず、大平は交渉が駄目になるかもしれないと思った。

 いよいよ行き詰まった時、角さんが「お前ら大学出は全然駄目だなあ」と。大平が「じゃあどうすりゃいいんですか」と聞くと、「そりゃ大学出たやつらが考えるんだ!」。そのやりとりの中で、大平は「これは表現の問題で解決できる」と思い付いた。

 角さんは「責任は俺が取る」と言って大平に全権を与え、交渉にはノータッチだった。全然悩んでいなかった。その方がいい面もある。向こうは周首相が全権を持っていて、(大平氏のカウンターパートの)姫鵬飛外相は大平がひとこと言うたびに隣の部屋の周氏に確認に行くから進まない。

 そこで(3日目に)万里の長城に行く時、大平が姫氏に「車に乗せてくれませんか」と。携帯もないから、そこなら周氏に相談できない。同席は通訳の周斌さんだけだった。その往復の4時間半で随分交渉が進み、貴重な時間だった。

 ―首脳会談で田中氏が尖閣の話を持ち出した。

 ほんのちょっと出たが、(周氏が)「その話は今はやめときましょう」と。別に棚上げ(という認識)ではない。

 ―交渉で日本の主張はおおむね通った。

 そうですね。私はなぜこんなに中国は譲るのかなと思っていた。後で考えると当時は中ソ問題というのがあった。だから日本には譲っても、日中関係を位置付けた方がいいという高度な判断があったんだろう。

 大平と私は飛行機の中で「今回中国は低姿勢だったが、50年たったら態度はガラッと変わる。大きく経済発展して日本を見下すようになるよ」と話しながら帰った。

 ―そう見越しながらも、大平氏は首相時に対中ODAを開始した。

 それは戦後賠償の代わり。大平は(中国への)贖罪(しょくざい)意識が非常に強かったので。

不快感示した米国

 ―日本は米国に先行して中国と国交正常化をした。

 外務省ではなく政治主導だったから。外務省は橋本(恕)中国課長以外、法眼(晋作)事務次官をはじめ日中交渉自体に反対だった。米国は日本が追い越したのは今でも残念で、日本は間違っていると思っている。

 ―訪中前のハワイでの日米首脳会談で、米側の不快感は感じたか。

 はい。ただ、日本側はハワイ会談はどうせ格好だけの手続きという感じで、大して重きを置いていなかった。キッシンジャー(大統領補佐官)はものすごく怒ったが。

 ―台湾断交で大平氏が悩んでいた様子は。

 ないですね。大平は中国と(の正常化)は台湾と切る前提でやっていたし、(64年に)大平自身が訪台し、台湾には十分に礼を尽くしたと(の認識だった)。自民党内の議論は、灰皿が飛んでそれは大変でしたが。

 ―台湾断交の際、現地で暴動などは。

 騒ぎが起こると思い注視していたが、懸念したほどのことはなかった。

 ―国交正常化後の日中の雰囲気は。

 中国は「日本が先生で、われわれは指導を受ける立場にある」と低姿勢で、日本国民の対中感情も今とは違っていた。

 ―中国の覇権主義的な動きで台湾情勢が緊迫している。

 むしろ私は、中国はよく我慢して台湾併合をせずにここまで来てるなと。そんなこと言ったって50年のうちには(やるのでは)と思っていた。

 ―今後、中国とどう付き合うべきか。

 難しいですね。50、60年たつとだんだん中国との付き合いは難しくなるよと、当時大平と話した。どうしたらいいかは大平も答えが出ないまま死んじゃった。でも今、中国にとっては日本なんて問題ではなく、米国(が相手)なんですよね。

 森田 一氏(もりた・はじめ) 1934年香川県坂出市生まれ。旧大蔵省在職時に大平正芳氏の娘婿となり、同氏の外相秘書官や首相秘書官を務める。80年、現職首相だった大平氏の急死に伴い、旧香川2区の地盤を継ぎ政界入り。衆院当選8回、森内閣では運輸相を務めた。

(2022年9月29日掲載)

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