参院選の遊説中に銃撃され亡くなった安倍晋三元首相の国葬が9月27日に行われる。岸田文雄首相は8月31日に記者会見し、安倍氏について「国民の信任を得て憲政史上最長の8年8カ月にわたり重責を務めた」などと強調。国葬がふさわしいとの考えを改めて示した。
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ただ、世論の賛否は割れ、国民の理解が得られているとは言い難い状況だ。そこで、国葬の成り立ちや果たした役割を正面から取り上げた、ほぼ唯一と言っていい書籍の著者である中央大学の宮間純一教授に安倍氏国葬の問題点を聞いてみた。宮間教授は「政治利用」されることに警鐘を鳴らす。(時事通信政治部 水谷洋介)
【目次】
◇原型は大久保葬儀
◇韓国併合に利用
◇吉田国葬と類似性
◇論理破綻の安倍氏国葬
◇国民的合意が不可欠
原型は大久保葬儀
―そもそも国葬とはどういうものか。
国葬は世界各国で行われており、その在り方や成立時期は一様ではない。普遍的に定義するなら「国の予算で国が主催して行う国家の儀式」だ。王や大統領、政治家、軍人のほか、民間人が対象となる国もある。
―明治期に国葬が取り入れられた理由は。
大久保利通が1878年に暗殺された。葬儀の音頭を取った伊藤博文らは、明治政府が盤石ではなかった中で、大久保が政府に反対する反乱分子によって暗殺されたことに危機感を覚えた。伊藤は国葬に準ずる形で葬儀を催し、天皇が大久保の死を哀しんでいることを皆で共有する場を用意した。反乱分子のしたことは間違いで、天皇に歯向かうことだと示した。
―大久保の葬儀は国葬に近い形で行われた。
原型と言った方がいいかもしれない。完成されたものではないが、政府が深く関与して大々的に営まれた。1883年の岩倉具視の葬儀は国が主催して、国費で行うことがはっきりした儀式だ。最初の正式な国葬と位置付けられる。
―著書では1891年の三条実美の葬儀で国葬が完成したとしている。
天皇が(国葬を)下賜する手続きが明確になった。新聞が普及して情報が広まり、地方でも国葬に合わせて学校や神社で追悼式などを開くという形が広く見られるようになった。
韓国併合に利用
―国葬がその後も続けられた理由は。
国葬は、それぞれに個性があり、盛り上がり方にも差が見られるが、原則は国民統合のための装置として機能した。天皇の名の下に、「国家に尽くした偉大な人物」を哀悼し、いかに功績があったのかを共有する。国民はこのようにならなければいけない、という規範にされる。思想、言論を一つに統一していく機能を持っていた。
盛り上がった具体的な例を挙げると、1909年に伊藤博文が中国東北部のハルビンで(朝鮮独立運動家の)安重根に暗殺された。伊藤は少し前まで韓国統監府のトップをしていて、韓国併合を進める立場にいた。当時の首相は桂太郎だが、伊藤が殺された翌日には国葬を行うことを閣議決定した。日比谷公園で行われ、周辺はぎゅうぎゅう詰めという熱狂ぶりだった。
当日は韓国でも追悼会が行われた。日本によって立てられた当時の大韓帝国皇帝・純宗は伊藤に弔辞を贈った。皇帝の名前で「反乱分子」のことを否定しているわけだ。翌年に日韓併合条約が結ばれるが、韓国経営を進めるための一つの政策として(国葬が)行われた面があった。
吉田国葬と類似性
―昭和の戦争期でも山本五十六の国葬(1943年)が利用された。
山本の国葬は目的が分かりやすい例だ。戦局が本格的に悪化していく時期に、山本の遺志を国民皆で継承して戦争を完遂するのだと訴えられた。兵士だけでなく、銃後の社会にいる女性や子どもたちにも戦争協力を促していく役割を持った。
―1967年の吉田茂の国葬の経緯は。
戦後、国葬が問題になるきっかけは1951年に大正天皇の皇后、貞明皇后が亡くなった時だ。結局、事実上の国葬という形で貞明皇后の大喪儀は実施されたが、皇族ではない人の国葬をどうするかという議論も付随して出てきた。
その後に「公式制度連絡調査会議」という会議で国葬も制度化すべきではないかという審議がされている。ただ、基準の設定が難しく政治問題化する恐れがあるなどの意見もあって、法制化に至らないまま吉田の国葬が実施された。吉田の国葬は(当時の首相である)佐藤栄作と自民党の強い意向があって決まった。今の形とかなり近い。
論理破綻の安倍氏国葬
―安倍氏の国葬をどう見るか。
最初に聞いた時、そんなものをまた持ち出すのかと思って驚いた。かなりあっという間に決めたので、本当に大丈夫なのかと思って恐ろしさを覚えた。過去の例を参照すれば、国葬は常に政治利用されてきた。自民党ないし岸田首相の立場を固めるために国葬を利用しようとしているのではないかと感じた。
―首相は「民主主義を守り抜く決意を示す」と強調している。
民主主義を象徴する場面である選挙活動の最中に不当な暴力で(安倍氏が)亡くなった、それに対抗するために国葬なんだ、というロジックだ。確かに、暴力は否定されなければならない。だが、首相の説明は、民主主義を破壊しようとしているテロ行為で安倍氏が亡くなったなら成り立ち得るが、今回は明らかにそうではない。
ましてや、戦前・戦中のような国葬は少なくとも戦後日本の民主主義とは相いれないものだ。自由な意思を抑圧し、一つの思想にまとめ上げるという役割を日本の歴史上、国葬が持ってきたことは確かだ。
―与党からは「外国要人の弔問の場をつくる意義は大きい」との声が出ている。
国葬は過去、弔問外交の場として利用されてきた。しかし、国葬は外国からの要望で行うものではない。
あくまでも国民が納得し、国民が望んではじめて行うものだ。外国から求められているから行うという論理はおかしい。今まで行ってきた「内閣・自民党合同葬」でも外交儀礼の場としては成立していたから、国葬とする必要性も分からない。
国民的合意が不可欠
―政府は国民一人ひとりに対しては弔意の表明を強制しない方針だが。
であれば、国葬という看板を取り下げるべきだ。これは吉田の国葬でも曖昧にされた点だが、戦前は天皇が決定する形式だった。戦後は国民(が決定権者になるはず)だ。「国葬」を名乗って行うのであれば、「国民」が了解し、追悼しようとならないと国葬ではない。国会での審議を経て、国民の同意を取り付けないといけない。
―後世から見て安倍氏の国葬が歴史の転換点となる可能性はあるか。
危惧するのは、これが前例として残ってしまうということだ。何もルールがない状態で、60年、70年、80年たった時にどういう使い方をされるか分からない。今はまだ批判することができている。でも、80年後の日本がどうなっているのかは誰にも分からない。山本五十六の国葬があったのは、たった80年ほど前のことだ。
宮間 純一氏(みやま・じゅんいち)1982年千葉県生まれ。2012年に中央大大学院博士後期課程修了後、同大准教授などを経て、22年に同大教授。博士(史学)。専門は日本近代史。著書に「国葬の成立 明治国家と『功臣』の死」(勉誠出版、2015年)など。
(2022年9月2日掲載)
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