ウクライナ侵攻の長期化は、西側諸国経済を中心に低成長とインフレ率の上昇という暗い見通しにつながっている。しかし、ロシアは原油や非エネルギー製品の輸出が健闘したうえ、中銀の機敏な危機対策もあり、経済は予想以上に持ちこたえている。公開統計情報が取捨選択されているとの指摘もあるが、少なくとも自動車生産については大幅減産を示す連邦統計局の発表が出ている。ロシアが制圧した東南部では、秋口にロシア編入を巡る住民投票実施に向け準備が進められている。しかし、ウクライナの反発は必至であり、停戦交渉の道筋は見えない。今後も、ウクライナ発の世界的な食糧危機の懸念が続くのか注目されている。(大和総研ロンドンリサーチセンター長 菅野泰夫)
ロシア経済は想定以上に持ちこたえている?
ウクライナ侵攻長期化の懸念が現実のものとなり、世界経済に暗い影を落としている。ウクライナ侵攻のショックは、ロシアからのエネルギー輸入に大きく依存するEUに直接・間接的な大打撃を与え、経済の低成長とインフレ率の上昇という軌道を強いている。エネルギーおよび食糧価格の急騰は世界的なインフレ圧力を強め、家計の購買力を圧迫し、これまで想定されていたよりも速いペースでの金融政策引き締めに繋がっている。
IMFの2022年7月の見通しでは、西側主要国のほぼすべてが下方修正されたものの、ロシア経済は原油や非エネルギー製品の輸出が予想以上に持ちこたえ、2022年は6.0%縮小と上方修正された(前回4月見通しでは8.5%縮小)。金融セクターへの制裁の影響を緩和する措置を導入し、労働市場の弱体化も懸念されたほどではなく、国内需要は幾ばくかの強靭性を見せている。
さらにロシア中銀も、景気低迷は長期化するものの、これまでの予想ほど深刻にならないとして7月に景気見通しを上方修正している。企業活動も、6月予想時ほど停滞しておらず、ロシア企業が新たなサプライヤーや市場を開拓し、景況感も徐々に回復している。GDPの縮小幅が小さくなると予想されたのは、主に輸出の減少が想定よりも小幅だったためである。その結果、ロシア中銀は供給サイドの要因によってGDPは2022年に4~6%縮小(4月時には8~10%縮小を予想)するものの、2024年には拡大に転じると予想している。
一方、IMFは、景気後退の規模は相当なものであり、ロシアの経済成長率は2023年に前年比マイナス3.5%とリバウンドも期待はできないとみている。さらに米国イエール大学の調査では、ロシアは想定以上に制裁の影響を被っていることが判明したと指摘している。2月24日の侵攻以降、ロシアはエネルギー価格の高騰により、エネルギー輸出で数十億ドルの利益を得てきたが、他のセクターに関する指標からは、多くの国内経済活動が停止していることが示唆されているという。
同調査ではロシア国内の生産は完全に停止しており、失われたビジネス、製品、人材を他で代用する能力がロシアにはないことも指摘されている。また、ロシアでは、輸入はほぼ消滅し、人材や部品、技術が極めて不足しており、プーチン大統領を政治的に支援している中国からの重要な輸入でさえ、半分以下に減少しているという結果が示されている。ロシア国内の技術革新と生産基盤の空洞化は、価格の高騰と消費者の不安につながっていると同調査は結論付けている。
海外企業の撤退が続き、輸出が不振になったという調査結果は、ロシア経済が依然として堅調であり、「経済的消耗戦」に勝利しているというロシア政府の主張に真っ向から対立するものである。ただし、海外企業の撤退といっても、英米とそれ以外とでは大きな乖離がある。イエール大学はロシアからの企業の撤退状況についても侵攻開始から継続して調査を行っており、それによれば「通常通り」の業務を続けている英国企業は1社のみだが、EU企業は100社超と対照的である。フランスのラコステ、イタリアのアルマーニやベネトン、オランダのフィリップスなど、国を代表するような企業は、ロシア市場からの撤退や業務削減を求める声にもかかわらず、これまで通りの業務を続けている。
自動車販売不振はロシア当局も認めざるを得ない?
ロシアは、貿易統計を含む公式な経済統計の発表を停止または検閲し、ロシアにとって都合の良い統計のみを公表しているとイエール大の調査では指摘している。ただロシア側の統計でも特に自動車に関する指標は大きく悪化していることが読みとれ、同調査の指摘が全て正しいとも言い切れない。
ロシア連邦国家統計局によると、2022年5月にロシアでの乗用車生産はほぼ停止し、前年比96.7%減、ロシア国内で生産された乗用車はわずか3,700台に留まっている。また、トラックの生産も減少しており、重量トラックの生産は5月に前年比39.3%減となった。ウクライナ侵攻当初の3月初めに、主要海外自動車メーカーの多くが、ロシア国内での活動の一時中止を発表した。このため、工場での自動車生産は休止し、国内ディーラーへの新車供給も止まった。
それに伴いロシアの乗用車販売市場も同様に厳しい数字を示している。2022年7月の新車販売は前年比74.9%減(32,412台)、1~7月でも同60.5%減(368,850台)となり、人気24ブランドを含むほぼ全てのメーカーの新車販売数は急落を示している。その主因はディーラーのもとに新車が供給されていないことである。
プーチン大統領は6月末にサンクトペテルブルクで開催された自動車業界発展に向けた会合で、自動車価格の上昇に関連し、市場に十分な数の自動車を供給することが必要と述べた。また、自動車業界が現在直面する主要なタスクとして、①工場操業を継続し、必要とされる部品を供給し、専門人材の雇用を確保すること、②価格が急騰している自動車の供給を大幅に増やすことを挙げた。さらに問題は乗用車に限らず、商用車でも確認されていると指摘している。商用車は買い手である企業や輸送業界が、不安定な状況下での投資を控えているためであり、特に、4月半ばから欧州へのロシアの輸送トラックの入国・滞在が禁止されていることが大きいという。プーチン大統領は、商用車市場の現状について、需要が不足している可能性があると認め、需要を支えるべく様々な支援プログラムを検討することを提案した。
住民投票でウクライナ紛争に決着はつくのか?
今後のロシア経済を予測する上でも欠かせないのが、ウクライナ侵攻がどのような形で、いつ終了するかの見通しであろう。2月15日、ロシア下院がドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を国家承認したことは、両共和国のロシア系住民保護の口実をロシアに与えた。それを理由に始まったウクライナにおけるロシアの軍事活動は、キーウ攻略の失敗後に東部制圧へと焦点を移した。激戦が繰り広げられ、ロシア軍の制圧下にある地域が徐々に拡大している。両共和国では、ロシアへの編入是非を問う住民投票の準備が進められている。既に投票の枠組みは整っており、選挙人名簿も作成され、選挙委員の任命も済んでいるという。
また、投票日を1日ではなく、2日間にするとの案も検討されている。7月に隣接するロシアのロストフ州の選挙委員がその準備のためにドンバス地方に派遣された。7月時点で同地方には77カ所の投票所が設置されているという。8月前の投票実施も示唆されていたが、ロシア軍が両共和国とウクライナ側との行政国境にまで撤退し、(ウクライナ軍が侵攻できない)安全保障ゾーンが作られてから実施される予定のため、軍部からの合図待ちの状態にある。両共和国はロシアでは一つの地域として認識されており、ロシア政府が独立を同日に承認したことから、住民投票も(両共和国が)同日に実施というのが基本的な考えである。なお、両共和国の世論においてはロシア支持が明確だが、ドンバス地方でもウクライナ侵攻開始後にロシア支配下となった地域では、併合を巡る世論は一定ではないという。正確な日付は設定されていないが、東部地域の制圧が進めば住民投票は9月15日までに実施されるとの報道もある。
またロシア軍はウクライナ南部でも同様に激戦を続けながら、制圧地域を拡大しており、7月末の時点でウクライナ領土の約20%がロシアの支配下にあると報じられている。これまでロシアは南部よりも東部制圧を重視する姿勢をみせてきたが、7月20日にラブロフ外相は南部を長期的に支配する方針を明確に示している。一部報道によれば、南部の主要都市、ヘルソンやザポリージャ、北東部のハルキウなどロシア制圧地域では、約半数が編入支持だが、その大半は消極的な支持という。つまり積極的な支持はその10~15%にすぎず、2割が反対に回る可能性があり、残り3割はウクライナ残留時よりも暮らし向きが楽になるのであればという条件での支持だという。これは公式な世論調査ではなく、住民投票の準備に携わっている関係者の見方にすぎない。7月23日にロシアが任命したザポリージャの暫定トップは、ロシア編入を巡る住民投票の第一歩となる選挙委員会を設立するための政令に署名している。ロシアは当初、制圧地域の編入ではなくウクライナからの分離を目指していたが、これら地域における親ロシア派への信頼感が薄れたこともあり直接的な支配へと戦略変更に出たと考えられている。
イスタンブール協定は、世界的な食糧危機を回避できるか?
さらに侵攻の長期化で最も懸念されているのが、食糧問題であろう。ウクライナは「欧州のパンかご」と称されるように、穀物やひまわり油の主要生産・輸出国である。農業はウクライナの全輸出額の4割以上を占め、侵攻前には雇用の15%を担っていた。アフリカや中東の発展途上国が主要輸出先であり、黒海からボスポラス海峡を経由してサハラ以南へと向かうルートが一般的であった。例えばレバノンでは小麦輸入に占めるウクライナ産小麦の割合は8割にも及んでいた。しかし、ロシアのウクライナ侵攻により、トルコやレバノン、シリアやソマリアといった国をはじめ世界的に食糧価格が高騰したうえ、ロシアが黒海を海上封鎖したため、穀物を積んだ輸出船が出港できず、ウクライナに滞留している穀物は2,000~2,600万トンとみられている。ウクライナ最大の港湾都市であり、穀物輸出のターミナルであるオデーサではこれまで主要な戦闘は回避されていたが、港を守るためにウクライナは機雷を敷設し、ロシアが海上封鎖に踏み切っていた。
世界的に数百万人が飢饉の恐れに直面するなか、ロシア政府はその責任をウクライナや西側諸国に負わせようとした。アフリカ諸国の首脳に対し、これら諸国での食糧難はロシアの農作物輸出に対し西側諸国の制裁が発動されたためだと、虚偽の主張を展開していたため、ロシアのその後の動きが注目されていた。しかし7月に国連とトルコが仲介し、ロシアとウクライナが侵攻開始後初めて合意した協定により、8月1日に5カ月にわたるロシアの黒海封鎖が解かれ、オデーサからウクライナの穀物輸出船が出港することができた。このいわゆるイスタンブール協定では、機雷が敷設された港湾付近の海域では、ウクライナの船が穀物輸送船を誘導し、その間ロシアは輸送船を攻撃しないこと、またウクライナに向かう輸送船が武器を密輸するのではないかというロシアの懸念から、輸送船を検査することが合意された。今後も順調に穀物輸出船がウクライナを出港し、迫りくる世界的な食糧危機の緩和につながるか、協定の効果が注目されている。
滞留していた穀物船の無事な航行が続けば、協定に対する信頼性が高まり、また海外から貨物船が入港するスペースも確保され、定期的な船舶の往来が再開されることが期待されている。サハラ以南の港湾は浅瀬が多く、小型船が多用されるため、ウクライナ入港時の検査には長蛇の列ができるとみられているほか、状況が急変する可能性がある以上、ウクライナ入港に抵抗を覚える船主も少なくない。このため、ウクライナからの穀物輸出が侵攻前の水準に戻り、食糧危機が緩和されるには数カ月かかると、ウクライナのクブラコウ・インフラ相は慎重な見方を示している。なお、協定合意前にはこの黒海からのルートによる輸出再開の見通しや、世界的な景気後退への懸念、ロシアでの過去最高となる作物の収穫などにより、農作物商品の価格は下がってきていた。ただしウクライナのゼレンスキー大統領がロシアとの徹底抗戦の姿勢を見せているため、年内に停戦交渉が開始される可能性も低い。今後も、ウクライナ発の世界的な食糧危機の懸念が続くのか注目されている。
(時事通信社「金融財政ビジネス」より)
【筆者紹介】
菅野泰夫(すげの・やすお) 99年大和総研入社。年金運用コンサルティング部、企業財務戦略部、資本市場調査部(現金融調査部)、ロンドンリサーチセンター長、ロンドン駐在シニアエコノミストを経て、21年10月から現職。研究・専門分野は欧州経済・金融市場、年金運用など。