「タイヤキ・ソング」の教え
1976年からプロ野球のヤクルトと近鉄で6年間プレーし、「赤鬼」の異名を取って本塁打王にもなったチャーリー・マニエルさん(78)が、時事通信の単独インタビューに応じた。米国では指導者のイメージが強く、米大リーグ歴代8位の通算612本塁打を放ち、野球殿堂入りを果たしたジム・トーミ(インディアンス、フィリーズなど)ら数々の強打者を育成。監督としては2005年から9シーズン指揮を執ったフィリーズで、ナ・リーグ東地区5連覇、うちリーグ優勝2度。08年には球団28年ぶりのワールドシリーズ制覇に導いた。監督としてメジャー通算の勝ち星は、ちょうど1000勝を誇る。
ツインズとプロ契約を結んだ1963年から数えて、今年が60年目。今もフィリーズでシニアアドバイザーを務めている。「日本に行っていなければ、コーチにも監督にもなっていない」。長い野球人生を送る契機となった現役晩年の日本での経験を複数回のインタビューで語った。(時事通信運動部 安岡朋彦)(文中、一部敬称略)
◇ ◇ ◇
かねて腸に疾患があり、2019年末にはヘルニアが悪化。2度の大手術を受けるなど3カ月の入院を強いられた。この間は米国も新型コロナウイルスの影響に見舞われ、長くグラウンドを離れることを余儀なくされた。
日本で学んだ「ワークエシック」
大病を乗り越え、昨年の春に大好きな野球の現場に戻ってきた「赤鬼」は、生き生きとした表情を取り戻していた。現役時代と変わらぬ大きな体つきも健在。気さくな人柄で、ひとたび野球の話を始めると、言葉が途切れることはない。そして、日本での経験について問うと、いつもこんな答えが返ってくる。
「日本に行くまでは、大リーグのコーチになろうとか、監督になろうなんて考えたこともなかった。私はハッピー・ゴー・ラッキー(行き当たりばったり)な性格なもので、引退した後にこれをやりたいというのはなかった。もし、日本に行っていなければ、コーチにも監督にもなっていないと思う」
日本人の記者に向けたリップサービスではない。マイナー時代から指導を受けてきた、まな弟子トーミに尋ねてみれば、「チャーリーはよく日本で学んだ『ワークエシック(職業倫理)』について話していた。日本人のやり方を称賛していた」と言う。
そのワークエシックとは。
「試合でプレーするために、技術を習得するために、毎日ハードな練習をしなければいけない。毎日ね」
「お金のためにサインした」
ヤクルトと契約し、海を渡ったのは1976年のことだった。なぜ日本へ行く決断をしたのか―。この質問をぶつけると、あけすけに語った。
「私はもう32歳だった。それまでしっかり稼いだことはなかったし、お金のためにサインした。メジャーではほぼ代打でしか出ていなかったから、一番稼いだ時でも年俸1万9000ドルとか2万ドルだったと思う。ヤクルトとの契約は年俸が6万6000ドルだったか、6万8000ドルだったか、それくらいだった。契約金も合わせると10万ドル(当時の為替レートで約3000万円)を超えていた。当時からすれば大金だった」
アメリカ野球学会(SABR)のホームページによると、76年のメジャー最高年俸は当時ブルワーズに所属していたハンク・アーロンの24万ドル。マニエルにとっては願ってもいない規模の契約だった。
大リーグデビューを果たした69年に走塁のスライディングで左足首を痛め、患部には固定器具のピンが埋め込まれていたという。その影響もあって、いつも足を引きずるようにしていて、守備や走塁には難があった。
メジャーに昇格しても「ベンチに座っているか、代打で出るか」。レギュラーの座は遠かった。
ヤクルトに移籍する前年の75年まで、メジャー6シーズンで、出場は242試合。得意の打撃もさえず、打率1割9分8厘で本塁打はわずかに4本。大リーグでのキャリアに見切りをつけ、日本へと旅立った。
ヤクルト、近鉄の初優勝に貢献
日本に渡ってからの大活躍は、プロ野球のオールドファンの記憶に深く刻まれている。来日2年目の77年に42本塁打を放ち、巨人の王貞治と本塁打王を争った。個人成績だけでなく、チームを勝利へと導いたことも大きな功績だ。78年も39本塁打。まだ弱小球団だったヤクルトが、リーグ初優勝と日本一にまで上り詰めた。
79年にはトレードで近鉄に移籍した。同年は顎に死球を受けた影響で長期離脱を強いられたものの、フェースガードが取り付けられたヘルメットをかぶって復帰。97試合の出場ながら37本塁打で初の打撃タイトル(本塁打王)を獲得した。
そしてヤクルトに続き、やはり一度も優勝経験がなかった近鉄がリーグ初制覇。その原動力となり、パ・リーグ最優秀選手(MVP)に選ばれた。翌80年も48本塁打、129打点の好成績を残して連覇に貢献。まさに優勝請負人と呼ぶにふさわしい働きぶりだった。
日本で結果を残し、指導者に転じてからは日本野球の長所を説き続けた。ただし、最初から日本の投手の球を簡単に打てたわけではない。米国とは異質の野球をすんなりと受け入れられたわけでもない。
「最初は文句ばかり言っていた。文化も言葉も何もかも違うんだ。理解できないことはたくさんあった」
来日1年目のキャンプ初日。その時の驚きは忘れられない。場所は鹿児島県日置市の湯之元球場。今でもキャンプ地の名前まで、しっかりと記憶している。
「湯之元球場って知っているか? 当時ヤクルトはそこでキャンプをやっていた。朝6時にバスで球場に着いたんだけど、選手たちは(球場に向かわずに)100段近くあろうかという長い階段をぞろぞろと下り始めたんだ。一番下まで下りたところで、みんな立ち止まったから『うわっ…』と思った。そこから選手たちは、一気に階段を駆け上がった。私は38段あたりまで登るのがやっと。周りの選手に笑われたよ」
米国では、まずないトレーニング法だろう。今の日本球界であれば、実績のある外国人選手は免除されそうなメニューだが、当時のヤクルトには「管理野球」で知られる広岡達朗ヘッドコーチがいた。特別扱いなど、あるはずがなかった。
「広岡さんはとてもとても厳格な人だから、練習を休めば試合には出られない。前の日に夜遅くまで出歩いていても、次の日は同じ練習をしなければいけなかった。(シーズン中も)走って、ベースランニングをして、キャッチボールをして、全体練習とは別に私は毎日1時間の打撃練習もやった。タフなスケジュールだった。だけど、広岡さんがルールをつくれば、守らなければならなかった。日本人であろうと外国人であろうと、そこは関係ない」
嵐の日に走り込みを命じられたことも。それにも従うしかなかった。
名指導者との出会い
幸いだったのは、当時の広岡ヘッドや荒川博監督が日本野球史に名を残すような指導者だったことだろう。
「日本で出会ったコーチの野球に関する知識は素晴らしかった」
広岡ヘッド(後に監督)との相性の悪さは、当時の書籍などで伝えられている通りのようだ。口論もしたが、今では「非があったのは私で、広岡さんではない」と思っている。
時に衝突しながらも、卓越した野球理論を持つ広岡から指導を受ける中で、日本の野球から学ぶべき点が多くあることに気付いた。今でもすぐに思い浮かぶのは、守備での内野手と外野手の連係。外野からの送球を二塁手や遊撃手が中継するプレーで、ヤクルトはポジションにこだわらず肩の強い選手が優先してカットマンに入っていた。
「大リーグでは(現在から)つい15年くらい前まで、その方法を採り入れていなかったんじゃないかな。私が監督だったフィリーズでは、二塁手のチェース・アットリーがカットプレーに入るところでも、代わりに(肩の強い)遊撃手のジミー・ロリンズに外野手との中継をやらせていた」
災い転じて、「現役が5年延びた」
得意の打撃も、メジャー時代の貯金だけで好成績を残したわけではない。来日1年目の76年3月、近鉄とのオープン戦で1本塁打を含む3安打を放った。後の活躍を予感させるような結果にも、当時の報道によれば、相手の指揮官で後に恩師と慕うことになる西本幸雄監督は、内角打ちに難があると見抜いていた。
本人も内角打ちには難があったと認める。ただ、その課題は「荒川道場」での徹底した反復練習で克服した。
日本で並外れた実績を残したがゆえに、あまり語られることはないが、ヤクルト1年目の76年は11本塁打、32打点、打率2割4分3厘。「きつい時間だった。適応に時間がかかった」。高給取りの外国人選手としては物足りない成績であることは、マニエル自身も自覚していた。解雇を覚悟していたそうだが、ヤクルトからは本人も「驚いた」と言う契約延長のオファーが届いた。
1年目は打棒が振るわなかっただけではない。シーズン中には、神宮球場でファウルフライを追った際にスパイクシューズが脱げ、スプリンクラーの設備に左足を引っかけて裂傷を負い、日本で手術を受けていたという。
ただ、このアクシデントが野球人生に好転をもたらすことになる。執刀医は負傷の治療だけでなく、大リーグ時代の69年に負ったけがで埋め込まれたピンも除去。思わぬ形で長年悩まされた足の問題は解消した。
災い転じて福となす。半世紀近くがたった今も、足首には傷痕が残る。「あれで現役生活が5年延びたよ」。翌年から引退までの5年間(77~81年)で才能は開花し、178本塁打、459打点をマークした。
荒川道場の学び、米国でも
荒川が王貞治を育てた名伯楽であることは、マニエルも知っている。76年途中で監督を解任されているが、マニエルの記憶では、成績を飛躍的に伸ばした77年まで教えを受けた。
内角速球を打つためには、あえてベースに近づいて立ち、体重を軸足に残しながら、手を素早く動かしてボールの内側からバットを出す—。左足が治ったことで、左打者のマニエルは軸足に体重を掛ける荒川の理論をしっかりと実践に移すことができた。来る日も来る日もトスを上げてもらい、バットを振り続けた。
「毎日、チーム練習とは別に少なくとも1時間。毎日、毎日だ。荒川さんがいたことですごく助かった。インサイドの打ち方を教えてくれたのは荒川さんだった。荒川さんは、とても、とても、とてもいい打撃コーチだった」
荒川道場は、マニエルを強打者に変貌させただけにとどまらない。
「実は米国で指導者になってから、選手には荒川さんに教わったことを教えていた。ジム・トーミにも、ライアン・ハワードにも、ジミー・ロリンズにも、チェース・アットリーにも。アレックス・ラミレスにも教えた」
トーミは言わずと知れたまな弟子。ハワード、ロリンズ、アットリーはフィリーズの黄金期を支えた中心選手。そして、ラミレスはマニエルがインディアンス時代に指導した選手で、2001年からヤクルト、巨人、DeNAでプレーし、外国人選手で初めての日本プロ野球通算2000安打を達成したあのラミレスのことだ。DeNAの監督も務めたことでも知られる。
マニエルが指導した好打者たちは、荒川の「孫弟子」ということになる。日本で受けた指導と同じように、選手たちに毎日バットを振らせた。
「王さんに聞いてみるといい」
自身の経験から、毎日練習を重ねることが重要なのだとマニエルは説く。
「大リーグでは(選手のコンディションのことを考えて)『チャーリー、走ってこい』なんて言ってくれる人はいなかった。日本では軍隊のようにみんなで走った。あの湯之元キャンプが終わるころには、私は他の選手に階段登りで勝てるようになっていた。あれで体の状態が上がっていたんだ」
毎日の練習で、コンディションがうまく整っていることを実感できた。試合にもより良い状態で臨むことができ、結果も残る。「コンディショニングは最も重要だということを日本で学んだ」
だからこそ、指導者になると、選手たちにはとにかく練習を課した。フィリーズの監督時代には、本拠地での試合の日はもちろん、ビジターでもグラウンドを借りて試合前に全体練習とは別の早出特打を実施していた。
フィリーズでプレーした経験のある井口資仁(現ロッテ監督)が「特打とか、室内でみんな打っていた。すごい量だった。よく練習する選手がいっぱいいた。打撃練習が終わった後でも(室内練習場の)マシンで打っていた。だから強いんだと思った」と語ったことがある。その練習量は、いわば「本場」の日本から来た選手も驚くほどだった。
マニエルは自身の選手時代、コーチ・監督時代をこう振り返る。
「私のチームは、いつだって打っていた。いつ、いかなる時も、だ。『練習、練習、練習』の繰り返しだった。今の選手は(調子が悪いと)『休もう、休もう、休もう』だ。王さんのところに行って助言を受けてみるといい。長嶋(茂雄)さんとか、山本浩二とか、田淵(幸一)に聞いてみるといい。日本の優れた選手というのは、スランプに陥ったら調子が良くなるまでバットを振り続けるものなんだ」
まいにち まいにち…
フィリーズの監督時代、こんなエピソードがある。日本人の選手やスタッフに、1970年代の大ヒット曲「およげ!たいやきくん」を日本語で歌って驚かせていたという。
「まいにち まいにち ぼくらは てっぱんの うえで やかれて いやになっちゃうよ」。この歌い出しを、とても気に入っているのだという。
日本に渡った76年は、前年の12月に発売された「およげ!たいやきくん」が空前のヒットソングとなった年だった。耳にする機会も多かったのだろう。
マニエルは、その名曲を「タイヤキ・ソング」と呼ぶ。
「どうして私がタイヤキ・ソングが好きなのか。タイヤキは毎日、毎日同じことを繰り返していた。『マイニチ、マイニチ』だ。あの歌が、どうすればいい選手になれるかを私に教えてくれたからだ」
「まいにち まいにち」―。人生の転機となった日本での日々と、野球選手にとって一番重要なことを思い起こさせる。そんな歌を忘れるはずがない。
「西本幸雄」と「広岡達朗」の姿
マニエルが指導を受けた人物の中で特に印象深いのは、やはり広岡監督と西本監督だという。広岡監督はヤクルトと西武で計7シーズン(76年の代行を除く)指揮を執り、リーグ優勝4度、日本一3度。西本監督は日本一の経験こそないものの、弱小球団だった阪急や近鉄を勝てるチームに育てたことで知られる。
西本監督とはウマが合った。79年に顎に死球を受け、病院で療養していると、監督が花束を持って見舞いに来てくれたことを、今も覚えている。2人でよくチームのことを話した。同年、阪急とのプレーオフでリーグ優勝を決めた際は、輪の真ん中で胴上げに参加し、肩を組んで喜んだ。
西本監督から「私は監督なのに、チャーリーは自分のおじいちゃんだと思ってるんじゃないか」と冗談めかしに言われたこともあるという。2011年11月に亡くなった際、当時フィリーズの監督だったマニエルは「父のように尊敬していた」との談話を出した。
「2人はタイプの違う監督だった。西本さんは愉快な人で、いいプレーをすれば褒めてくれた。広岡さんはいつも選手に完璧を求めた。いつもいいプレーをすることを選手に求めていた。バカみたいな凡ミスが嫌いだった。だけど、ハッスルした中で出てしまったミスはオーケーだった」
監督時代のマニエルの姿には、2人の影響が垣間見える。チームが勝てば、選手のロッカー室に姿を見せ、一人ひとりと握手を交わす温かさがあった。教え子は「わが子のようなもの」。いつも打撃ケージの後ろに立ち、打撃練習に最初から最後まで付き合っていたさまは、当時の選手たちが証言する西本監督の姿と重なる。
一方では、「管理野球」さながらの規律もチームに求めた。マニエルが定めたルールは「Hustle and be on time」(ハッスルすること、時間を守ること)。全力疾走を怠るなど覇気のないプレーが見られたり、時間を守れなかったりすれば、主力であっても試合のメンバーから外した。ピアスやひげを禁止するなど、身だしなみにも厳しかった。
選手に対して気に入らないことがあれば監督室に呼び出し、面と向かって「自分が何をやりたいか」を伝えた。それらは広岡監督を参考にした指導法だった。
マニエルのやり方を「オールドスクール(古い)」とやゆする声もあったが、実力者の集団をまとめ上げてフィリーズの黄金期を築いた事実は動かない。そして、当の本人は「古いとか言われたけれど、あれはむしろ日本式なんだ」と反論する。
「もし、日本に行っていなければ、コーチにも監督にもなっていないと思う。監督とは何か、コーチとは何か、チームとは何か。私はそれを日本で学んだんだ」
日本に渡ったのは、もう46年も前のことになる。野球の本場でもある母国で指導者として名声を得ても、今なお日本球界への感謝の気持ちを持ち続けている。そんな懐の深さがマニエルの魅力でもある。
(2022年8月31日掲載)