歯車が少しずれていたら、今ごろは教壇に立っていたかもしれない。今夏、ラグビー日本代表に選出された中尾隼太(BL東京)。鹿児島大教育学部卒で、小中高校の教員免許を持っている。6~7月に国内で行われたウルグアイ代表、フランス代表とのテストマッチにはメンバー入りできなかったものの、SOのポジション争いに身を置いた。27歳。異色のトップ選手は、「決して遠回りをしてはいない」と言い切る。今はひたすら、2023年秋のワールドカップ(W杯)フランス大会出場を目指して挑戦の日々を送っている。(時事通信運動部 伊藤晋一郎)
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関東や関西の強豪大学で活躍した選手だけでなく、海外出身者もいる日本代表。その中で、地方の国立大OBという中尾の経歴は異彩を放つ。今年1月のリーグワン開幕前に掲げた目標は「3年以内の代表入り」。想定よりもはるかに早く代表候補の話が舞い込み、自身が驚いた。「(目標が)1年以内に達成された。びっくりした」
ラグビーが盛んな長崎県で育った。小学2年生から楕円(だえん)形のボールに触れ、高校ラガーマンにとっての聖地「花園」の常連、長崎北陽台高へ。将来を嘱望する声は当時からあったが、「自信は全くなかった」と自己評価が低かったという。そのため、ラグビー選手でなく教師を志すようになった。雰囲気のいいクラスを運営していた小学5、6年の担任教師に憧れたのがきっかけだった。
「置かれたところで咲きなさい」
一方で、大学までは高いレベルでプレーをしたいという思いもあった。受験先に選んだのは、関東大学対抗戦グループに所属して日本代表も輩出してきた筑波大。教員養成課程が充実していて、ラグビーとの両立を目指す中尾にとって魅力的だった。しかし、結果は不合格。後期入試で合格した鹿児島大に進学した。支えになったのは、両親に「置かれたところで咲きなさい」と言われたこと。一度は挫折感を味わいつつも、前向きな気持ちになれた。
九州学生リーグに所属する鹿児島大ラグビー部に入部。部員は生活費はもちろん、道具を買う費用も遠征費もアルバイトで稼いでいた。中尾も例外ではなく、温浴施設の清掃、ハンバーガーチェーンやコンビニエンスストアの店員を務めながら、ラグビーと勉学を両立させた。
学びが多かった4年間
中尾はこの環境で多くを学んだという。学生主体でチームの練習計画を立て、うまくいかなければ修正する。常に主体的にラグビーに取り組む姿勢が養われた。経験値や選手としてのモチベーションは異なる。それでも部員は、「ラグビーが好き」という同じ気持ちだった。「バックグラウンドか違う仲間を深く知って好きになる。そしてチームとして戦うことを学んだ」と振り返る。
4年生の春に転機が訪れた、九州選抜として福岡で同大と対戦。この試合を見たトップリーグの名門、東芝から誘われ、加入を決めた。教師になる夢はあっても、その決断に迷いはなかったという。国内最高峰のチームでトップレベルのラグビーに挑戦した後、教師になっても遅くはない。むしろ、「それを経験した後に先生になれば(子どもたちに)伝えられることも違ってくる」と考えた。
「正しい勇気」を信条に
東芝では他の選手に比べてスキルもフィジカルも劣っているように感じたが、だからこそ成長できる余地がある。そう捉えた。体の大きな選手を相手にプレーする怖さを感じながらも、大切にしてきたのは「正しい勇気」。176センチ、86キロの体格。「大きい選手の真っ正面に当たってもそれは勇気ではない。体を鍛え、自分のスキルで相手を倒す」という信条がある。
チーム名が東芝からBL東京になった今季のリーグワンでは、プレーオフを含め16試合に出場。司令塔としてゲームコントロールをするだけでなく、果敢に突破を試みる強気なプレーも光った。得点力の高いバックス陣で欠かせない存在に。日本代表のジェイミー・ジョセフ・ヘッドコーチは「(CTBの)12番でもプレーできる。リーダーとしても素晴らしい」と評価する。
中尾にとって、W杯代表への挑戦はまだ序章。大舞台で躍動すべく、来秋に向け、ひたむきに突き進む。与えられた環境で努力を積み重ねてきたラガーマンは、自身の将来像についてこう話す。「もう一度教職を目指すことも選択肢の一つ。小さな世界しか見えず、どんな未来が待っているか分からない子どもは多い。先生になったら、ポジティブな言葉で次のステップへと働きかけたい」。W杯で躍動する姿が実現すれば、やがて教職に就いた時、子どもたちに言葉以上のメッセージを伝えることになるだろう。
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中尾 隼太(なかお・はやた) 1995年1月20日生まれの27歳。長崎県出身。長崎中央ラグビースクールで競技を始めた。長崎北陽台高では全国高校大会に出場。鹿児島大4年時に7人制日本代表に選ばれた。小学校と中高校(保健体育)の教員免許を持つ。
(2022年7月26日掲載)