必勝を期し、突き付けられた現実
東京五輪から間もなく1年。日本は史上最多の金メダル27個、計58個のメダルを獲得した。中でも、創始国の面目をかけた柔道のメダルラッシュは際立ち、金が9個、銀は新種目の混合団体を含め2個、銅も1個。その一方で、表彰台に立つ地力を持ちながら、まさかの結末に涙を流した選手もいた。その一人、女子63キロ級の2回戦で敗退した田代未来(28)=コマツ=が時事通信のインタビューに応じた。あの日。故障明けで調整不足の中でも、必勝を期して畳に上がり、敗れた。五輪直前の苦闘、突き付けられた現実、そして今の思い…。素直な胸中を明かした。(時事通信運動部 岩尾哲大)
◇ ◇ ◇
田代にとって昨夏は、2度目の五輪だった。2016年リオデジャネイロ大会で初出場。準決勝でクラリス・アグベニェヌ(フランス)に屈し、3位決定戦でも敗れて5位に終わった。左手首に痛みを抱え、「ドアノブも回せない状態だった」。リオ五輪後、手術を受けた。
回復後は日本勢の一番手に戻った。18、19年と世界選手権に出場。2年連続で決勝に進んだが、またもアグベニェヌの壁に阻まれ、ともに準優勝だった。東京五輪の前評判は、田代が地元で悲願を果たすか、リオ五輪では銀だった世界選手権5度優勝のアグベニェヌが初の五輪金メダルを勝ち取るか―。互いにライバルと認め合う両者の頂上決戦が予想された。
ライバルとの対決を待たずに
しかし、田代の挑戦は2試合目で断たれた。当時世界ランキング21位の伏兵、アガタ・オズドバ(ポーランド)に一本負けした。リオ五輪後、田代はアグベニェヌ以外の海外勢に負けていなかった。それだけに、衝撃的な結果だった。試合後、田代は「必死にやってきたが、これが現実で、ただただ弱かった」。涙に暮れながら、報道陣の質問に応じた。
あれから11カ月が経った今年6月中旬。「五輪が終わってから、こういうお話を(記者に)するのは初めて。いまだにちょっと整理し切れていない部分もある。だけど、受け入れなきゃ、たぶん前に進めない。少しずつ消化していこうと思っていて」。つらい記憶をたどるような問いかけにも、田代らしく丁寧に答えた。
重なったアクシデント
東京五輪代表に決まったのは、20年2月末。それから1カ月後、新型コロナウイルス感染拡大の影響で五輪の1年延期が決まった。はたして開催できるのか。不透明な中で時は過ぎた。接触競技の柔道は、感染対策にとりわけ慎重な対応が求められた。「いざ練習ができるとなった時に、とことん練習をした」。体に異変が生じたのは年末ごろ。左肩の具合が悪くなり、寝られないほどの痛みを感じるようになった。
そんな状況でも、田代は21年3月の国際大会、グランドスラム・タシケント大会(ウズベキスタン)に臨んだ。状態は万全ではなかったが、コロナ禍の折、この機会を見送れば実戦機会を経ないまま本番に向かうことになる事態も想定された。「調子が悪くても、五輪は戦わないといけない」との思いもあり、出場を決断。結果は全5試合、オール一本勝ちでの優勝だった。1年以上離れていた試合で、地力をしっかり示した。
ただ、左肩の状態は改善しない。4月の強化合宿で、さらなるアクシデントが襲った。トレーニング中に左足首を強くひねった。「足が変な方向を向いているのが自分でも分かった。(東京五輪は)もう終わった、と思うぐらいだった」。そんな想像をしてしまうほどの重傷だった。リハビリに時間を割かれ、実戦的な稽古の乱取りを再開できたのは7月に入ってから。五輪までもう、1カ月を切っている。
「私、戦えるのかな…」
左組みの田代にとって、左肩と左足は「命と言ってもおかしくないぐらい」。本番は7月27日。生命線とも言える箇所に負傷を負いながら、短期間で大舞台に備えるのは困難を極めた。痛みが引いたわけではない。「稽古ができても終わった後に痛くて、次の日に足がつけないこともあった。アグベニェヌ選手に勝つとか言う前に、『私、戦えるのかな』という気持ちが出てきてしまった」。五輪の試合前夜は「緊張ではなく、肩が痛くて寝られなかった」というほどだった。
迎えた五輪当日。1回戦は内股で技ありを奪って優勢勝ちを収めたが、本調子ではなかった。軸となる小外刈りが思うように機能しない。「何で五輪で、こんなに悪い照準に合わせちゃうのだろう」。もどかしさが募った。2回戦は開始から1分40秒が経過する頃、オズドバの小内巻き込みで畳にたたきつけられた。「足が止まっていたから、反応できていなかった」
この何年間、何だったんだろう
この小内巻き込みをめぐり、最初の判定は技あり。それから映像確認を経て、一本に変わった。検討がなされている最中は「もう一回始まってくれ。絶対取り返すから」と願った。だが、主審が判定の変更を示した瞬間、「頭が真っ白になった」と言う。
畳を降りるまでの足取りは重かった。「この何年間、何だったんだろうというのがすごく強くて。もうこれ以上頑張れないと思ってやってきたので。こんなもんじゃないのに、という気持ちが一番強かった」。柔道への真摯(しんし)な姿勢は誰もが認めるところ。日本女子ではただ一人、リオ五輪に続いて代表になった田代には、後輩の信頼も厚かった。あまりにも無情な結末。筆者もその光景が信じられず、すぐに取材エリアに向かえなかったのを覚えている。
4日後に行われた混合団体には出場しなかった。「うそでも、『いけます』って言えなかった。戦えないって、ちょっと思ってしまった。後悔するだろうなと思ったんですけど」
やり切れるところまで
もうすぐ、五輪から1年。「いまだに、受け入れることができていない」。率直な心境だという。「あれ以上のことはできなかったな、というのは正直あった。情けないですけど」とも言った。
進退については、悩んだ末に現役続行を決めた。「本当は金メダルを取ってやめようと思っていた。だけど、あんな負け方をしちゃって。ここまで力を付けてきて、あの舞台でどうしても勝てないというのも悔しくて。その悔しいという気持ちが、少しずつ出てきたというのもあって。勝ち負け以前に、力を出し切れなかったというのが心にすごく大きく残っていた。五輪で何もせずに終わったというのがすごく大きかったので、しっかりやり切れるところまで、やれるだけのことをやってみて、また上を目指したいなと思った」
続いたけがに「意味があるのかも」
そう決心し、次に進もうとした矢先。またしても試練が待っていた。今年2月。2カ月後の全日本選抜体重別選手権からの復帰に向け調整していて、左膝の腫れに気づいた。病院に行くと、前十字靱帯(じんたい)が切れていることが発覚。高校2年生だった11年前にも断裂した箇所だった。
「もう(競技を)やめろということかなと思った。両親には『大丈夫?』じゃなくて『もう頑張らなくていいよ。十分頑張ったから』と言われたんですよ。そういう思いをずっとさせているというのも、正直苦しくて」
それでも、手術を受ける際には「逆に、やろう思った」。なぜか。「意味があるのかなと思いました。何かしら意味があって。東京五輪が終わって、続けようと思ったこと自体も何かしら意味があるし、いざ前に進もうと思った時、また嫌なことがあるというのは、何か意味があるんだろうなと。もちろん不安とか、怖いなという思いはあるけど、何か違うものが出せるようになるのかなというのがあって。もしかしたら動かないかもしれないし、もしかしたら戦えないかもしれないけど、やりたいというのがあった」
挑戦しないと、そこで止まる
それは、新たな自分へのわくわくした感覚とは少し違う。使命感に似ていた。「やり残したくない、というのが強い。東京五輪の前は、(新たな技術などに)挑戦することを怖がって、これでいいと思ってしまっていた自分がいた。それが落とし穴だったのかなって。柔道をやる上でも、柔道をやめても、何事も挑戦していかないと、そこで止まると感じた」
左膝の全治は6カ月。元の感覚に戻るのに2年はかかるとも言われている。ただ、体の使い方を見直している過程で、新しい発見もあるという。「今までそれでよくできていたなと感じることもある」。負傷を重ねてきた原因が理解できるようになった部分もある。
10月末の講道館杯全日本体重別選手権での復帰を目指している。「もちろん焦りはある。(パリ五輪の)代表が決まるまで、2年切っている。一つ一つの試合がすごく重要になってくる」。パリまでの道のりは、過去2大会より険しくなるかもしれない。ただ、今のけがをする前まで「ぼんやり」としていた覚悟は、むしろ強くなっている。
激励や身近な存在も力に
28歳になり、以前の自分との違いは確かに感じている。「20歳から(世界選手権の)代表でやらせてもらって、早咲きと言われがちだったけど、なかなか花が開かなくて。歯がゆいというか、これだけチャンスもらっているのにと思うところもあるが、その時間も何かしらの意味があるんだろうなと、そう思えるようにやっていきたい」
東京五輪の直後、リオで金メダル、東京では銀メダルを獲得したティナ・トルステニャク(スロベニア)のコーチから、日本のスタッフを通じ「田代は続けるべきだ。(パリまで)あと3年だから。そう伝えてくれ」と激励されたという。身近な選手の存在も力になっている。同じコマツ所属の選手では、57キロ級の台湾代表で五輪2大会連続出場の連珍羚が34歳。32歳の大野陽子も70キロ級で国際大会に出続けている。2年前にブイ・テクノロジーへ籍を移した宇高菜絵は、37歳の今も現役。29歳で57キロ級の世界女王に輝いた。その宇高からも「だから、全然まだまだだよ」との励ましを受けたという。
ゴールや限界はない
この1年で分かったのは「ゴールや限界はない。いい意味でも、悪い意味でも」ということ。「リオが今までで一番つらい思い出だと思っていたが、かわいいもので、普通にそういう(東京の)結果にもなる。こうしておけば大丈夫というのは、これからもないだろうなと考えさせられた。でも、だからこそ(この先の)可能性もあると信じている。無駄なものは一つもないと思いながら、今は過ごしている」。全ての経験を受け止め、柔道と誠実に向き合う日々を続けていく。
アグベニェヌはインスタグラムで出産したことを発表。妊娠を公表した際には、連覇が懸かる地元のパリ五輪を目指す意思を示している。「すごく離されているなという感覚が正直ある。でも、地道にやっていけば近づけるかもしれない。またやりたい」と田代は言う。
その最大のライバルにかつて言われた「東京五輪の決勝でやろう」というメッセージを実現することはできなかった。ならば、今度は相手のホームで―。その期待を抱きながら、不屈の柔道家が完全復活を遂げる日を待ちたい。
◇ ◇ ◇
田代 未来(たしろ・みく) 1994年4月7日生まれ。東京都出身。中村美里や丸山城志郎、渡名喜風南、コマツの後輩でもある芳田司、冨田若春らを輩出した神奈川県の相武館吉田道場で鍛えられた。東京・淑徳高からコマツ入り。女子63キロ級で2016年リオデジャネイロ五輪は5位。東京五輪は2回戦敗退。世界選手権は14、15年に銅、18、19年には銀メダルを獲得した。得意技は内股、小外刈り。身長163センチ。
(2022年7月7日掲載)