沖縄県出身の私は、沖縄復帰50年の節目となる2022年に時事通信に入社し、復帰関係の取材に携わった。「もっと戦争体験を記録しなければ」。20万人以上の犠牲が出た沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる「沖縄慰霊の日」(6月23日)を前に、そんな思いが強くなり、「記者」として祖父から話を聞いた。88歳の祖父は「(沖縄戦)前からがいいか?」と切り出し、70年以上前の記憶をゆっくりと語り始めた。(時事通信社会部 饒平名咲衣=よへな・さえ)
「対馬丸」直前で取りやめ
1944年7月、戦況は日増しに悪化し、沖縄が戦場になる可能性が高まっていた。「沖縄は玉砕する。長男だけでも内地に逃がそう」。当時、祖父の父は大阪で働いており、那覇市で5人の子どもを育てていた母は、小学5年生だった祖父を学童疎開船「対馬丸」に乗せることにした。
8月21日。祖父自身も乗船する気だったが、出航予定時刻を1時間半後に控えた午前7時半、那覇市の家を出ようとすると、泥まみれの2人の弟が玄関前に座り込んで泣きじゃくっている。「行かないで」。泣きやまない弟たちの姿に、祖父は「1人では行けない。自分は家族といなければ」と思い直し、乗船を取りやめた。
~この日出航した対馬丸は翌日夜、鹿児島県・悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没しました。学童784人を含む1484人(氏名判明分)が犠牲となり、祖父の同級生も多く乗船していたそうです。祖父は「護衛の兵隊も乗っていたから逆に狙われた。子どもだけだったら撃たなかったと思う」と話しました~
◇練習じゃない!
乗船取りやめから2カ月近くたった10月10日、「那覇港で日本の航空隊の練習がある」と聞いていた祖父は、近くの小山に登って港の方を眺めていた。早朝、ごう音とともに飛来した飛行機が、船に次々と爆弾を落としていく。「すごい練習だな」。そう思った直後、空襲警報が鳴り響いた。「練習じゃなかった。米軍の飛行機だった」。急いで家に戻り、10キロの米を担いで家族と防空壕(ごう)へ逃げた。途中、足の親指の爪がはがれたが、痛みに気付いたのは壕に着いてからだった。
~「10.10空襲」では那覇市の9割が焼失し、住民約660人が亡くなりました~
徒歩で80キロ
米軍が沖縄本島に上陸し、地上戦が始まったのは翌45年4月。祖父ら家族6人は本島北部に避難するため、ひとまず電車で嘉手納に向かおうとした。だが、駅で「5年生以上は歩いて行け」と言われ、結局、6人は直線距離にして約80キロを徒歩で避難することになった。
嘉手納では、足の悪い「おばあ」(祖父の祖母)と合流した。祖父たちは途中、「歩けない人を車で送っていく」という人に「おばあ」を預けたが、送り先の合流場所に「おばあ」の姿はない。そうこうするうち、合流場所で米軍の空襲が始まり、以来、「おばあ」とは会っていない。
◇米軍に捕まる
弾薬庫のある山で兵士に「止まれ」と懐中電灯で照らされ、「危うく殺されかけた」。身を寄せた学校では、2歳の妹が夜明けに泣きだし、「(気付かれて)アメリカに爆弾を落とされたら困る。出て行きなさい」と追い出された。そんな経験を経て、ようやくたどり着いた目的地にも食糧はなく、別の場所へ避難しようとしたところを米軍に捕まった。
トラックに乗せられた祖父ら6人は、名護の一軒家に約70人の人たちと詰め込まれた。6人で使えるのは畳1枚半のスペースと毛布1枚のみ。祖父と姉は座ったまま眠り、母はマラリアにかかった。
ここでも食糧はない。祖父は「命がけで」米軍の部隊から米を盗んできた。「捕虜になっていた人たちと分けたら少ししか残らなかった。でもみんな何も食べてないから分けたよ」。
靴磨きで糊口をしのぐ
戦後、祖父の父が大阪から帰ってきた。だが、父の稼ぎだけでは家族7人が食べていくことはできない。13歳だった祖父は米軍のフィリピン人部隊で靴磨きをし、代金の代わりに受け取ったたばこを売って生活費を稼いだ。
戦後すぐ、薬きょうや不発弾がそこら中に落ちており、祖父は、落ちていた薬きょうを使って大きな音が出る「銃」を自作した。「米兵が山から降りてきて襲いに来る。そいつらが来たときに、音で脅す。あとは女の人が家の奥に隠れられるようによ」。弟は幼い頃、遊んでいた不発弾が爆発し、指を1本失った。
18歳からはタクシー運転手として働いたが、「内地に行けば給料が倍になる」と聞き、27歳の時に横浜へ。最初の職場では「朝鮮と沖縄は一緒だ」と差別された。その後、トラック運転手をしていた時に父が亡くなり、本土復帰後の73年9月、沖縄に戻った。
本土復帰について尋ねた。「横浜にいたからね。何とも思わんかったんじゃないか。覚えてない」。
対馬丸沈没から60年後の2004年、那覇市に「対馬丸記念館」が開館。多くの同級生を失った祖父の足は向かなかったが、81歳になった年の8月22日に熱が出た。沈没した日に合わせた発熱は3年続き、83歳の時、初めて記念館を訪問。展示された同級生らの写真に手を合わせると、不思議と熱は下がり、翌年以降、発熱しなくなったという。
取材を終えて
「聞いてくれてありがとうね」。2時間半の取材後、祖父は何度も感謝の言葉を繰り返した。最近の記憶は薄れてきているのに、70年以上前の出来事、地名を鮮明に記憶していたことに、「祖父はこの日をずっと待っていたのではないか」とさえ思った。 間もなく戦後77年。私は祖父の代から直接話を聞ける最後の世代なのかもしれない。記者として、沖縄出身者として、また平和を願う1人として、記憶の継承の在り方を考え続けていこう。祖父の話を聞き、改めてそう思った。(2022年6月23日掲載)