今年3月から急速に円安が進行しており、一時1ドル=130円台と約20年ぶりの安値を付けたほか、ユーロなど他の主要通貨に対しても下落傾向にある。円安は輸出の追い風となるため、日本経済にとって望ましいというのが従来の常識だった。しかし、最近は資源や食料品などの輸入価格上昇を招く「悪い円安」への懸念が台頭。以前と比べて円安のプラス面が薄れてきたとの声が増えている。(時事通信経済部 編集委員・赤間央)
円高で産業空洞化
円安になると、同じ製品を外貨建てでより安く販売でき、輸出競争力が増す。海外子会社が稼いだ利益の円換算額も膨らみ、いいことずくめだとされてきた。円高は海外の資源や資産を買いやすくなるメリットがあるものの、一貫して悪玉だった。
過去を振り返ると、米国が金とドルの兌換(だかん)停止を宣言した1971年の「ニクソン・ショック」を機に、戦後の高度経済成長を支えた1ドル=360円の固定相場制が崩壊。85年の「プラザ合意」を経て円高が加速し、バブル後の95年に79円台、東日本大震災後の2011年には75円台を経験した。
旧大蔵省で官房長や財務官を歴任した佐上武弘氏は、退職後に週刊東洋経済(82年10月16日号)に寄稿し、円切り上げ(円高)が避けられなくなったニクソン・ショック当時を回顧している。佐上氏はその中で、水田三喜男蔵相(当時)が71年8月、昭和天皇に経済情勢を説明した際の記録を明かした。
それによると、昭和天皇は「円の切上げをすることは、円が強くなったことであり、つまりは日本の国がよくなった事だと考えるわけには、行かないか」と質問された。水田氏は「その通りと存じます。然しながら国民生活への影響は決して小さいものでは御座いません」と応じたという。
実際、日本は度重なる「円高不況」に見舞われてきた。経済産業省の海外事業活動基本調査によると、95年度に8.3%だった日本の製造業の海外生産比率は、19年度には23.4%と8年連続で2割を突破。為替リスクから逃れようと、企業が海外に工場を移していったためだ。
国内産業が空洞化した結果、衣服や家電にとどまらず、パソコンなど電子機器の輸入依存度も高まった。例えば、携帯電話などの「通信機」は06年時点では輸出が輸入より多かったが、07年には逆転。21年は輸入が3.3兆円、輸出は0.4兆円と大幅な「赤字」になっている。
燃料輸入で所得流出
また、11年の東日本大震災以降、国内の原発の大半が停止。火力発電の稼働が増え、液化天然ガス(LNG)など鉱物性燃料の輸入額は14年に過去最大級の27.7兆円を記録した。21年には17兆円まで減ったが、2000年代前半の8~10兆円を大きく上回る水準だ。
資源輸入の増加は、海外への所得流出が加速し、国内の購買力が減少することを意味する。輸入面では円高の方が有利だが、ここへきて急速に円安が進み、ロシアのウクライナ侵攻に伴う世界的な資源価格上昇とのダブルパンチとなる格好。鉱物性燃料の輸入額は1~4月の合計で既に9兆円に迫り、通年では30兆円に達するとの試算もある。
98年に約14兆円のピークを記録した日本の貿易黒字は、最近10年間で7回赤字に転落するなど見る影もなく、22年も赤字に陥る公算が大きい。三菱UFJリサーチ&コンサルティングの小林真一郎氏は「生産拠点の海外移転により、円安になっても輸出が増えにくい産業構造になっている」と指摘。「工業製品の輸入浸透度が高まっており、円安のデメリットに拍車が掛かっている」と話す。
現在の円安は、新型コロナウイルス禍からの経済活動の正常化に伴い、米国が金融引き締めに転換したことが原因だ。金利が低い円が売られ、ドルを買う動きが強まった。経済の回復が遅れて異次元緩和を続ける日本と、海外の金利差は拡大していく見通しで、今後も円安傾向は続くとみられる。
日銀がまとめた4月の輸入物価指数は、円ベースで前年同月比44.6%の急激な上昇となった。日銀によると、円安の影響はこのうち3分の1程度。立場が弱い中小企業は輸入コストを販売価格に十分転嫁できず、しわ寄せを受けやすい。資源・食料品価格の高騰と円安で、日本の物価は上昇傾向にあるが、賃上げを伴わないインフレは家計の購買力を弱める。
また、物価上昇は預貯金の実質的な価値減少を意味し、低金利の円資産の魅力が低下する。自民党の財政健全化推進本部(本部長・額賀福志郎元財務相)は5月の提言で「将来的にも円安が続けば、莫大(ばくだい)な個人金融資産が海外に流出する可能性もある」と警鐘を鳴らした。
産業の国内回帰に期待も
もっとも、政府や日銀は「全体として円安は(経済に)プラス」(黒田東彦日銀総裁)との見方を崩していない。輸出増加に伴い、設備投資にも好影響が波及すると見込まれるためだ。内閣府の短期日本経済マクロ計量モデル(18年版)によると、10%の円安で実質GDP(国内総生産)は2年目に0.66%、3年目に0.74%それぞれ拡大する。
上場企業の22年3月期連結決算を見ると、円安による増益効果はトヨタ自動車が6100億円、ホンダが1689億円に達し、輸出企業への恩恵が目立った。好業績の大企業が取引先によるコストの価格転嫁を受け入れ、賃上げの動きも広がれば日本経済に好ましい形だと言える。
市場関係者の間でも「円安は国内の設備投資を拡大する千載一遇のチャンスで、日本経済にとって圧倒的にポジティブだ」(岡三証券の会田卓司チーフエコノミスト)という見方は根強い。元財務官の山崎達雄SBI金融経済研究所理事は「プラザ合意以降、日本経済は長期にわたって実力以上の円高に苦しんできた」と指摘。「日本経済が構造的に円安に戻ったなら、これを好機として産業の空洞化の逆転政策を取るべきだ」として、高付加価値の製造業の地方展開を主張している。
ただ、円安で国内に製造業が回帰するかどうかは見方が分かれる。かつて大胆な為替介入を繰り返し、「ミスター円」と呼ばれた榊原英資元財務官(インド経済研究所理事長)は「日本企業はグローバル展開を進めており、国内に戻ることはあまり期待できない」と説明。「円安で輸出を促進する時代ではない」とした上で、日本企業が海外で設備投資や合併・買収(M&A)を手掛けやすくなることから、「円高は国益という見方に転換するべきだ」と語っている。
円安と円高のどちらになっても、利益を享受する人と打撃を被る人が出てくる。どちらがより好ましいのかをめぐり、今後も活発な議論が続きそうだ。
(2022年6月1日掲載)