黒田東彦日銀総裁が物価高についての不用意な発言で厳しく批判され、撤回に追い込まれた。具体的には、6月6日の講演で「家計の値上げ許容度が高まっている」と述べた部分だ。ネット上では、家計の苦境を軽視する発言として批判が集中。7、8日に国会に呼ばれた黒田総裁は「適切な言い方でなかった」などと釈明。「誤解を招いた表現で申し訳ない」と陳謝し、発言を撤回した。日銀OBらが「前代未聞の失態」と口をそろえる失言が飛び出した背景を考察してみた。 (時事通信解説委員 窪園博俊)
「非の打ちどころない」はずなのに
まず、黒田総裁の失言がなぜ「前代未聞」なのかを説明したい。一般的に失言は、記者会見や国会での質疑応答などで飛び出すものだ。金融政策運営を批判したい向きは、そもそも失言を誘うための質問を繰り出す。慣れないと質問者のペースに乗せられ、失言する羽目になる。この点、財務官などを歴任した黒田総裁は、国会答弁や会見などは手慣れたものだ。実は今回の失言は、講演後の質疑ではなく、読み上げた講演原稿に問題があった。これがまさに「前代未聞」となった。
なぜなら日銀総裁の講演原稿は、非の打ちどころのないものが求められるからだ。公式資料としてホームページにアップされ、世間の多くの目に触れる。誤字脱字も含めて問題があってはならない。マスコミが一部を切り取って批判的に報じようとしても「どのように切り取られても大丈夫」(複数の幹部)とされるほど。ところが、今回の講演では、物価高の家計への影響を分析した部分が「失言」となった。過去、講演原稿が厳しい世論を受けて「撤回」騒ぎが起きたことはないと記憶する。
少し詳しく見てみよう。講演終盤の「企業の価格設定スタンスが積極化している中で、日本の家計の値上げ許容度も高まってきている」という部分だ。これは「東京大学の渡辺努教授の調査で『なじみの店でなじみの商品の値段が10%上がったときにどうするか』との質問に対し『値上げを受け入れ、その店でそのまま買う』との回答が、欧米のように半数以上を占めるようになっている」ことを根拠としている。
この分析に対する一般消費者の反応は容易に想像がつく。ほとんど誰も商品の値上がりを「受け入れ」ていないだろう。原油など国際資源価格の高騰は広範な食品・日用品に及び、要は「どこに行っても値上がりしており、選択の余地がない」(大手邦銀アナリスト)のが実感のはず。仮にどこかに安い店があっても、忙しくて探す時間がないし、安い店が遠方だと移動のコストもかかる。値上がりした商品を諦めて買うしかない。
実際、日銀が四半期ごとに公表している「生活意識に関するアンケート調査」では、物価上昇で家計の困窮度は強まっている。物価が「かなり上がった」「少し上がった」との回答比率の合計は昨年6月で56.4%だったが、今年3月は81.2%に急拡大。この間、「ゆとりがなくなった」との回答は37.3%から41.7%に増大。景況感は昨年後半は改善したが、物価高が顕著になった今年は「悪くなった」との回答が昨年12月の51.0%から今年3月は57.4%に拡大した。
都合の良いロジック
日銀自身のアンケート調査を踏まえれば、家計の苦境は明らかなのに、なぜ批判を浴びる「値上げ許容度が高い」との分析に飛びついたのか。まず、金融政策が強引な物価上昇を目指すからだ。2013年に発足した黒田体制は、大規模緩和で「物価を2年で2%」に上げることを目指した。だが、緩和は奏功せず、10年近く未達が続いた。そして、やっと最近になって2%に達した。計算外だったのは、家計に打撃となる原材料費増大による物価上昇(コストプッシュ)であったことだ。
しかし、日銀にとってはコストプッシュでも家計が値上げに寛容になれば、「(現行緩和策で)賃金が上昇しやすいマクロ経済環境を提供し、持続的な物価上昇へとつなげる」(黒田総裁)と見込む。つまり、コストプッシュの物価高が一段落した後、現行緩和策の効果で景気は回復。そして賃金が上がり、家計はこれまでになく物価高に寛容になる、というシナリオを描く。悪い物価上昇が良い物価上昇に転換する、というわけだ。
日銀としては、良い物価上昇につながる道筋を説明したに過ぎないのに、まさか批判を浴びるとは思っていなかっただろう。まさに、「都合の良いロジックにこだわり過ぎて、家計の痛みを思いやることを忘れた」(ある日銀OB)としか言いようがない。また、悪い物価上昇が良い物価上昇に転換するロジックは「ほとんど夢物語で、現実味はない」(同)とも言える。
むしろ、机上の空論にすがって現行緩和策を続けることは、インフレ抑制で引き締めに動く欧米との金利差が拡大。外為市場で「悪い円安」が進み、コストプッシュの物価高が一段と加速し、家計への打撃を強める公算が大きい。黒田総裁は「家計が苦渋の選択として値上げをやむを得ず受け入れているということは十分認識している」と釈明したが、本当にそう思うなら、現行緩和策を正常化させ、「悪い円安」に少しでも歯止めをかけることが望まれよう。
【筆者略歴】外国経済部、ロンドン特派員、経済部などを経て現職。1997年から日銀記者クラブに所属。以来、金融政策、経済、マーケットの動向などを取材。
(2022年6月10日掲載)