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ソフトバンク東浜巨、「復帰50年」の節目に大記録 沖縄出身投手初のノーヒットノーラン

故郷を思い、マウンドへ

 故郷の沖縄にとって節目の年に、沖縄出身者として初の大記録をつくった。プロ野球ソフトバンクの東浜巨投手(32)が、5月11日に福岡ペイペイドームでの西武戦で無安打無得点試合(ノーヒットノーラン)を達成。東浜は沖縄県うるま市出身。快挙の4日後、沖縄は本土復帰50年を迎えた。プロ入り10年目。太平洋戦争末期の地上戦、戦後の米軍統治…。自分が生まれるはるか以前の歩みや歴史について、30歳を過ぎて改めて考えたという。常に沖縄を思い、マウンドに立つ右腕が成し遂げた快投の意味は大きい。(時事通信福岡支社編集部 近藤健吾、那覇支局 原野琳太郎)

◇ ◇ ◇

 「疲れました。でも、こんな気持ちのいい疲れは久しぶり」。東浜はノーヒットノーランのヒーローインタビューで開口一番、こう言った。最後の打者、金子侑司の打球は自分のところに飛んできた。わずかにグラブをかすめた時、球場で固唾をのんで見守る誰もがひやりとしたかもしれない。「いつもはソワソワしないんですけど。あのシーンだけは『絶対にアウトを取れよ!』と」。自らの横を抜けた打球を、二塁手の三森大貴が冷静にさばいて一塁に投げ、マウンドに歓喜の輪ができた。

 立ち上がりからストライクゾーンで攻めた。いつも以上に直球が走り、カットボールや代名詞とも言えるシンカーの切れが抜群。バットの芯をことごとく外し、打ち取っていった。

全てがいいように働いた

 二回に絶好調の山川穂高を抑えた後、1死から中村剛也に四球を与えた。だが、続く栗山巧には外角に沈む142キロのシンカーを引っ掛けさせて遊ゴロ併殺に。五回は先頭の山川をストレートの四球で歩かせたが、二回と同じ形で切り抜ける。中村への初球。外角寄りに146キロの直球を投じた。現役選手で最も本塁打を放っている強打者、中村がこの球に手を出す。打球は遊撃手、今宮健太の正面に転がり、併殺となった。

 走者を出したのは、この2四球だけ。ともに次打者を併殺に仕留め、打者27人で9回を投げ切った。「全て、いいように働いたのかな」

粘りの「10安打完封」が理想

 東浜はプロ入り当初から、理想として「10安打完封」と口にすることがあった。粘り強い投球の原点は、沖縄尚学高時代にさかのぼる。同校の比嘉公也監督から受けた言葉が由来だ。「どれだけヒット打たれようが、ランナーを出そうが、最終的にホームを踏ませなければいい。それがエースだ」。比嘉監督にそう諭され、心に刻み込んだ。

 登板中、「七回あたりにノーヒットだなあと思った」。完璧な投球への意識は、そこまでなかったようだ。「もしかしたらそれ(10安打)で完封した方がうれしいかも」と、冗談交じりに笑った。

「マダックス」で達成

 97球を投げて6奪三振。佐々木朗希(ロッテ)の完全試合達成のように三振をズバズバと取るような投球ではなかった。「追い込むまでは三振は狙いにいかず、2ストライクになった時にどうしようかなと思いながら投げていた。三振は、あまり狙いにいっていない」

 アウトの内訳が、その意識を示している。内野ゴロ14(うち併殺打2)、内野飛球3(うち邪飛1)、内野へのライナーが1。外野飛球は、三回に先頭の柘植世那が打ち上げた中飛だけ。バットの芯を外して打ち取るという、東浜が好調時の理想に近い形だった。米大リーグで100球に満たない投球数での完封は、それを得意として通算355勝を挙げた名投手、グレッグ・マダックスになぞらえて「マダックス」と呼ぶ。そのノーヒットノーラン版は、日本のプロ野球では2006年の山本昌(中日)以来だ。

 東浜は、ノーヒットノーランの試合で体のコンディションが万全だったわけではない。五回ごろには右足がつっていた。だが、森山良二投手コーチとの会話で、投球には影響がないことを強調。ベンチは続投を決めた。その中で、甲斐拓也のリードには変化があったようだ。足の状態も気にしてか、中盤以降は直球の割合を減らす配球に切り替えた。東浜本人は「シンカーがしっかり変化していたし、カットボールもしっかり使えていた」。要所でストレートを織り交ぜ、「(甲斐が)サインを出している感じで、僕も意図がわかった。そのリードに救われた」。良き女房役に感謝の意を表した。

「沖縄のために投げているように見えた」

 沖縄が本土に復帰して50年という節目、5月15日を目前にしてのノーヒットノーラン。東浜は、沖縄では誰もが知るプロ野球のスターだ。故郷のうるま市でも盛り上がりを見せた。

 東浜が市立与勝中に在学していた当時の野球部顧問だった上門(うえじょう)博之さんは、「普段から黙々とやるタイプで、自分の意志を貫き通している。負けず嫌いなところがあり、その後のキャリアに生きていると思う」とみる。周囲からも好かれる人柄。「去年は不調だったので心配していたが、そこからノーヒットノーランを達成したのには、その性格があったからではないか」

 本人との連絡は今も続いているといい、毎回の登板後にLINEでやりとりをしている。勝っても負けても、上門さんはメッセージを送り、東浜もそれに返信をしてくれるという。ある時、「登板して沖縄を盛り上げたい。自分の活躍で活気がつけばいい」と書き込みがあった。沖縄県は新型コロナウイルスで打撃を受けた。上門さんは、「厳しい状況で、野球の大会自体できないことが多く、落ち込んでいる子どもたちも多い。そのあたりに気持ちがあると思う」と推し量る。「縁起担ぎのように、習慣になっている」

 上門さんは記録達成の瞬間を自宅のテレビで見ていた。東浜の出身小学校を訪れた際にも写真が大きく飾られていたという。「うれしいというのもあるが、東浜ならやってもおかしくないなと。当日の(球の)キレを見て、いけるんじゃないかと。自分の記録に加えて、沖縄のために投げているように見えた」

教え子の快挙に誇り

 小学校の1年生から所属していた少年野球チーム「与那城ストロング」で今も監督を務める宮里薫さんは、プロで羽ばたいている教え子の東浜に目を細める。「誇りどころか、凱旋登板でもしっかり投げた。沖縄の節目の年に活躍するというのが、しっかりやってきた巨くんだと思った。さすが。期待通りにやってくれた」。3年生から6年生までの東浜を指導したという宮里さん。当時は足の速さや球の精度など、能力が桁違いだったわけではなかったが、「しっかりしていて、自分の野球をする。後輩の面倒見もよかった」そうだ。「ストライクを取って試合を組み立てていけるエースだった」と述懐する。

 宮里さんもまた、5月10日はテレビの画面越しで勇姿を見届けた。「今年は調子が良く、やると思っていた。あのようなプロ野球の世界でノーヒットノーランなんてなかなか出ないのに、やってくれたなと。さすがうちの東浜だと感動、感心した」

凱旋登板で後輩・与座と投げ合う

 熱が冷めない試合後。東浜は故郷に思いをはせた。対戦した西武の山川をはじめ、昨季パ・リーグ新人王に輝いたオリックスの宮城大弥ら近年は沖縄出身選手の活躍がめざましい。「沖縄の野球のレベルが確実に上がっているという証明にもなるんじゃないか。沖縄からプロの世界、日本のトップで頑張っているという姿自体が、県民を勇気づけられることになると思ってプレーしている。少しでも貢献できるように、これからもやっていきたい」

 そして、絶好のタイミングで凱旋(がいせん)登板の機会に恵まれた。5月17日。西武の主催試合ではあるものの、ソフトバンクは那覇での試合が組まれていた。中5日のマウンドだったが、先発ローテーション通りに投げてきた東浜が登板することになった。「自分の中でもすごくワクワクしている部分がある」。招待券は100枚以上用意したという。

 相手の先発は沖縄尚学高の後輩で、自主トレを共にしたこともある与座海人。「沖縄初のノーヒッター」に用意された、これ以上ない舞台。一目見ようと、セルラースタジアム那覇には平日にもかかわらず、1万人に迫る観衆が訪れた。互いに譲らない白熱した投手戦となり、東浜は勝敗こそつかなかったが7回無失点と好投。試合はソフトバンクが勝ち、ヒーローインタビューに呼ばれた。「僕の名前がコールされた時に大きい拍手や声援で応援してくれて、背中を押してもらった。沖縄って、いいところだなと感じた」。3年ぶりの故郷での登板を終え、心地よさそうに大粒の汗を拭った。

大先輩の安仁屋さんも祝福

 高校の大先輩で、広島や阪神の投手として活躍した安仁屋宗八さん(77)も喜んでくれた。沖縄(現沖縄尚学)高のエースとして、記念大会を除き県勢で初めて宮崎県代表との南九州大会を勝ち抜いて甲子園に出場。プロで通算119勝を挙げた「元祖・沖縄の星」だ。同郷、同窓の後輩が果たした快挙に「すごいことやってくれたな、というのしかない。先輩として誇りに思う」と祝福。面識はそこまでないというが、東浜の活躍を気にかけていたという。

 高校時代は選抜大会で優勝し、亜大では東都大学リーグで通算35勝、リーグ記録の通算22完封など輝かしい成績を残した東浜。ドラフト1位でソフトバンク入りしたが、プロでは苦難もあった。5年目の2017年に16勝して最多勝のタイトルを獲得したが、2桁勝利はその1度だけ。19年には右肘を手術するなど故障も経験した。昨季は新型コロナウイルスに感染し、調整が狂ったことも。「苦労したけど、ここまでよく頑張ってきたと思う」と安仁屋さん。「いつも楽しみな投手だと思っていた。やっぱり、沖縄出身の子として頼りになるなと」

 このタイミングでの大記録は、何より大きな意味を持つとみている。「沖縄をアピールするいう感じで、一番いい形にできたんじゃないかな。これからをもっと大事に、頑張ってもらいたい」とエールを送った。

野球ができる喜び

 東浜にとって、野球ができる喜びは格別だ。2020年の12月下旬、新型コロナウイルスに感染。今と比べて、まだプロ野球選手の感染事例が珍しかった。味覚と嗅覚に異常があり、何より体力の衰えを感じた。トレーニングすらままならない毎日。「家にいると本当にずっと一人。テレビをつけても同じ(コロナの)ニュースばかり。軽症の人でも容態が急変するニュースを見て、不安を抱えて生活していた。チームメートにうつしているんじゃないかと」。その頃の心境を吐露した。

 だからこそ、ようやく練習に合流できるようになった際、言葉に実感を込めてこう話した。「隔離生活が終わって外に出られるだけでも、うれしく感じる。これから目いっぱい練習できる」

故郷の歩みに目を向けて

 何事もなく、野球ができる。その現実を客観視して、心底うれしいと思える。そういう視点で、故郷の歩みに目を向けている。那覇での凱旋登板の前日、こんなことを語っていた。

 「復帰50年というところで、より現実を見るというか。そういったところも、改めて勉強し直した」

 1945年、太平洋戦争末期の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で、県民の4人に1人が犠牲になったとされる。故郷の持つ特別な歴史。東浜の父方の祖父、忠文さんは、兵士として戦地へ赴き、海外で戦死した。ただ、家庭では戦争について話す機会は多くなかった。6月23日になると「慰霊の日」がどういう日なのかを教え、「きょう、黙とうした?」など会話を交わすことはあったが、当時は野球漬けの毎日。家族で資料館などに行く機会もなかった。

 そして32歳の今、史実についてより深く考えるようになった。「昔の人たちの積み重ねを感じる」と言う。コロナ感染、度重なる故障を経験したからこそ、不自由なく白球を追える日々が、決して当たり前ではない。そう実感するのだろう。20年に自身初の開幕投手に選ばれた頃など、東浜は常々、マウンドに立てることへの感謝の言葉を口にしてきた。

特別な思いが原動力に

 特別な思いを寄せる沖縄。それは東浜にとって、大きなモチベーションになっている。

 「(沖縄出身選手の)先頭を走っていけるように。僕も刺激をもらいながら、毎日頑張れている一つの原動力になっている」

 「沖縄県民の皆さんにいいプレーを届けられるように、僕だけじゃなくて(同県出身選手の)全員がそういう思いでグラウンドに立っていると思う。まだまだこれから、頑張っていきたい」

 チームのため、そして故郷のために―。背番号16は懸命に腕を振り続ける。

◇ ◇ ◇

 東浜 巨(ひがしはま・なお) 1990年6月20日生まれの32歳。沖縄尚学高で2008年春の選抜大会優勝。亜大では東都大学リーグで1年春から主戦投手として活躍し、歴代4位に並ぶ通算35勝。ドラフト会議で1位指名に3球団が競合した末、ソフトバンクに入団。1年目の13年から1軍で登板し、17年に16勝を挙げて最多勝。20年は初の開幕投手を務めた。22年5月11日の西武戦で史上84人目(95度目)の無安打無得点試合を達成。右投げ右打ち。182センチ、83キロ。沖縄県うるま市出身。

(2022年6月21日掲載)

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