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私の問いに総理は即断した 「小泉訪朝」20年に想う
田中均元外務審議官【特別寄稿】

2022年06月24日

 今から20年前、2002年9月17日に小泉純一郎総理は訪朝し、平壌宣言に署名し、5名の拉致被害者の帰国につなげた。私は、それに至る1年の間水面下の交渉に携わった。とても長く苦しい時間だった。その交渉を振り返り、何が重要であったのかを改めて考えてみたいと思う。

秘密交渉とする理由があった

 交渉は何度も頓挫し、「もう無理だ」と思うことがたびたびあった。交渉をしていることが外に漏れると、拉致された人たちの生命に危険が及ぶこともあり得る。「知る人の人数を限れ」というのが小泉総理の厳命だった。当初から承知していたのは総理と私のチーム以外には、福田康夫官房長官、古川貞二郎官房副長官、川口順子外相、竹内行夫外務事務次官だけだった。

 民主主義国相手で秘密交渉はまずあり得ないが、北朝鮮のような国では内部の権力構造は判然とせず(後に私の交渉相手は、拉致をした当局の存在を考えると、金正日国防委員長のトップダウンでしか動かないと漏らしていた)、水面下の交渉とせざるを得ないという事情もある。

 また核やミサイルといった国家安全にかかわる問題では交渉相手は金正日国防委員長と直結した安保関係者でないと、なかなか前へ進まない。当時の外交最高実力者と言われた姜錫柱(カン・ソクジュ)副外相ですら、拉致とか核問題は自分たち外交官には手に余ると述べていた。北朝鮮は通常、偽名を使い、本当の所属を明らかにしないが、交渉相手は情報当局である国家保衛部の軍人幹部だということは容易に想像がついた。

困難を極めたのは「拉致」と「戦後補償」

 この交渉で困難を極めたのが、北朝鮮に「拉致」を認めさせ、生存者の帰国と徹底的な調査を約束させることだった。同時に北朝鮮が求めた「戦後補償」を諦めさせ、韓国方式(1965年の日韓基本条約で合意されている請求権の相互放棄と経済協力)にすること、かつ、具体的な経済協力の額は正常化交渉を待ってしか決められないことに同意させるのも難問だった。

 交渉相手は拉致を認めるとすれば金正日国防委員長にしかできないので小泉総理が訪朝し首脳会談をすること以外に方法がないとして、譲らなかった。経済協力額は示すことができない点についても小泉総理の訪朝とセットでの合意だった。ただ訪朝には大きなリスクもあるので、私は中立的に総理訪朝の可否を聞いたが、小泉総理は一も二もなく即座に「いつ行くか決めてくれ」と答えた。政治的責任がとれるのは総理だけであり、厄介な交渉をした時の総理が、使命感とリスクを覚悟で進む決意を持った人で本当によかったと思った瞬間だった。

 私には自分の経験からの強い思いがあった。長かったのは交渉を始めてから総理訪朝につなげた1年間だけではなかった。それに先立つ15年間にわたり、朝鮮半島の平和達成に役立ちたいと思い続けた。1987年に私は北朝鮮の工作員金賢姫(キム・ヒョンヒ 、87年末の大韓航空機爆破実行犯)に会い、拉致の可能性を聞いた最初の人間であり、89年に米国情報当局から北朝鮮の核開発の可能性についてブリーフを受けた最初の外務省員だった。そして94年の第一次北朝鮮核危機に際して危機管理計画を作る外務省の実務責任者だったし、96年に北朝鮮有事のシナリオをもとに米国と日米防衛協力のガイドラインを作った際の責任者だった。

 2001年にアジア大洋州局長になった時、総理官邸で小泉総理と向き合い、これまでの経験を説明し、「北朝鮮と交渉がしたい」と言ったことをきのうのように思い出す。北朝鮮の脅威は実に大きい。1年間の交渉でいろいろ修羅場があったが、くじけることなく向き合えたのは、それまで北朝鮮との関係で歴史問題から安全保障問題までほとんどの問題にかかわってきたのは自分以外にはいないという自負心のようなものがあったからだと思う。

 北朝鮮との交渉は一夜漬けで行えるものではない。また難しい課題を克服するためには時空を広げ、大きな絵を描いて相手のメリットも見出さないと合意はできないことも銘記すべきだろう。

米国との関係を損ねてはならない

 日本にとって同盟国米国との関係は格段に重要である。日朝問題は、場合によっては米国と利害が反しうる課題であり、日米同盟関係を損ねないよう細心の注意が必要だった。米国のブッシュ政権が北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、北朝鮮に厳しい姿勢をとっていたからこそ、日朝交渉は実現したという面もある。

 すなわち、米国の強硬な姿勢におびえた北朝鮮は米国の強い同盟国である日本との関係改善を考えたのだろう。私は、北朝鮮との1年間の交渉を通じ、折に触れ米国には北朝鮮と交渉を行っていること自体は、内々に伝えていた。当時国務副長官であった旧知のリチャード・アーミテージ氏は「日本が日本の課題(アジェンダ)をこなしていくのに同盟国である米国は邪魔をしない」と言い、それに応えて私は「決して米国の利益は害さない」と述べた。

 総理訪朝を3週間後に控えた8月末、総理の指示で、小泉訪朝の考え方、ほぼ交渉を了した平壌宣言案などについて、ホテルオークラの一室で来日していた米側代表団(アーミテージ国務副長官、ケリー国務次官補、ベーカー駐日大使など)に説明をした。当時、チェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官など「ネオコン」と言われる人々の反対が予想されたこともあり、アーミテージ氏は「自分からパウエル国務長官に電話するので、明日、小泉総理からブッシュ大統領に電話が欲しい」と言ってくれた。翌日の小泉総理の電話に対し、ブッシュ大統領は「あなたのすることは、全面的に支持する」と述べた。

 日米関係で全ての面に追随していく必要はない。信頼関係があれば、相手の利益を害さないという前提の下で独自の行動をとることもあるし、また、アメリカとの関係が強ければアジアで創造的な外交を展開することもできることを銘記するべきだろう。

「世論」との関係は克服できなかった

 克服するのが難しかったのは世論との関係だ。水面下の交渉には世論との関係でどうしてもリスクは残る。すべてのことを唐突に開示せざるを得ない。拉致被害者「5名生存8名死亡」といった極めてセンセーショナルなニュースが号外で打たれ、死亡したと言われる人が多かったことが瞬時に世論の形成につながった。

 長い期間の拉致被害者や家族の苦渋を思うと、これは無理もないし、交渉をした私の自宅に爆発物が置かれるほど世論は激高した。近隣諸国から歴史問題で加害者として責められてきた日本が「被害者」となった。極めて有力な政治指導者が先頭に立って北朝鮮強硬論を喧伝(けんでん)する事態となり、保守ナショナリズムが勢いを増した。北朝鮮に対するこの国内の極めて厳しい風当たりはその後の北朝鮮との対話を極めて難しいものとした。

 拉致問題の解決を考えた時、残念ながら亡くなった拉致被害者を生き返らせることは可能ではない。生存を前提として信頼に足る徹底的な調査を行うことは必要だ。ただ、北朝鮮の調査は十分でないということになるのだろうし、最終的には日朝合同調査を行わざるを得ない。そのためにも日朝間で対話が再開されなければならないし、拉致問題解決に向けて動くという北朝鮮の政治的意思が確認されなければならない。

「核」の問題との包括的解決が唯一の道

 日朝の対話を妨げてきた、より本質的な原因は核問題の展開である。平壌宣言では核問題は多国間の協議で解決を目指すことに合意をし、その後6者協議が発足した。私はすでに退官した後だったが、ようやく2005年9月に至り、核問題を包括的で段階的な解決に導くロードマップたる共同声明が発表された。これは平壌宣言で描いてきた段取りだった。日本も平壌宣言に従って日朝協議を行っていくこととなった。

 しかし、この工程も、同時並行的に導入された米国の金融制裁や検証できるような核の廃棄の具体的検証方法で合意できなかったことなど、米朝間の相互不信が強く、頓挫した。北朝鮮はその後核実験、ミサイル実験を繰り返し、拉致問題も今日に至るまで進展なく推移したのは残念でならない。米朝首脳会談により一時対話のムードが高まったが、長くは続かなかった。

 北朝鮮問題は国際的に許容できない北朝鮮の行動に起因するが、そのような行動を改めさせるためには「包括的解決」しか解がない。日本にとって拉致問題は日本の主権が侵害された問題であり、早急な解決が必要だ。同時に核問題は日本にとっての深刻な安全保障問題だ。北朝鮮は正常化を望むのだろうが、拉致と核の二つの問題の解決がないまま国交正常化には至れないし、経済協力も供与できないのは自明だ。だとすれば包括的に問題解決を考えていくことが必須となる。

 しかし核問題は核を持つ米国が主導していかざるを得ない。従って何よりもまず米国と北朝鮮の交渉を可能にするよう日本も外交的努力を積み重ね、米朝交渉と並行的に日朝交渉を軌道に乗せることが求められている。拉致問題解決の重要性は言をまたないが、結果を出すこともなく、単に解決の決意表明だけを繰り返すのはいかにもむなしい。何よりも結果を作るための具体的外交を進めることこそが必要だ。

〔写真特集〕ドキュメント小泉首相訪朝
〔写真特集〕日本人拉致事件

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【著者紹介】

田中 均(たなか・ひとし)
(株)日本総合研究所 国際戦略研究所 理事長、元外務審議官
 1969年京都大学法学部卒業後、外務省入省。北米局北米二課長、アジア局北東アジア課長、英国国際戦略問題研究所研究員、在連合王国日本国大使館公使、総合外交政策局総務課長、北米局審議官、在サンフランシスコ日本国総領事、経済局長、アジア大洋州局長を経て、2002年より政務担当外務審議官を務め、2005年8月退官。同年9月より(公財)日本国際交流センターシニア・フェロー、2010年10月に(株)日本総合研究所 国際戦略研究所理事長に就任。2006年4月から2018年3月まで東京大学公共政策大学院客員教授。オックスフォード大学より学士号・修士号(哲学・政治・経済)取得。
 アジア大洋州局長時代、史上初の日朝首脳会談・日朝平壌宣言を導いたことで知られる。著書に『国家と外交』(共著・講談社、2005年11月)、『外交の力』(日本経済新聞出版社、2009年)、『プロフェッショナルの交渉力』(講談社、2009年)、『中国は、いま』(共著・岩波書店、2011年)、『日本の未来について話そう』(共著・小学館、2011年)、『日本外交の挑戦』(角川新書、2015年)、『見えない戦争』(中公新書ラクレ、2019年11月)等がある。
Twitter:@TanakaDiplomat
YouTubeチャンネル:田中均の国際政治塾

(2022年6月24日掲載)

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