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「漫画の聖地」トキワ荘の青春~夢を胸に上京した若者たち(金丸裕子)

 3週間後に87歳の誕生日を迎えるという藤子不二雄Ⓐ (安孫子素雄)先生は足取りも軽やかに、トレードマークのサングラスをかけたクールな姿で現れました。2021年2月17日、編集に携わっていた『トキワ荘マンガミュージアム―物語のはじまり』(平凡社)のためインタビューに応じてくださったのです。 サービス精神と漫画家仲間への愛情あふれるお話に心を打たれたあの日から1年2カ月後、去る4月7日に耳にした藤子不二雄Ⓐ先生の訃報は信じがたいものでした。

 藤子不二雄Ⓐ先生からお聞きしたのは、主にトキワ荘時代のことでした。「トキワ荘」とは、1950年代から60年代にかけて、手塚治虫、藤子不二雄(安孫子素雄、藤本弘)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫といった漫画の神様たちが、若い頃ほぼ同時期に住んでいた豊島区椎名町にあった伝説のアパートです。漫画ファンからは「漫画の聖地」と呼ばれてきました。1982年に解体されてしまいましたが、豊島区によって再現され、「トキワ荘マンガミュージアム」として2020年7月に開館したのです。

 トキワ荘には、11名の漫画家たちが暮らしました。彼らはどのようにこの漫画の聖地に集まったのか、上京時のエピソードにスポットを当てていきたいと思います。

 夜行列車に揺られて富山県高岡市から上京した藤子不二雄の二人が最初に住んだのは、藤子不二雄Ⓐ先生による自伝的漫画『まんが道』に描かれているとおり、両国にあった親戚の家でした。2畳の部屋に机を置くと、背中が壁にぴったりとつく狭さ。疲れても倒れることさえできなかったそうです。そこに二人で並んで漫画を描き、夜は机を外に出して布団を敷く暮らしでも、楽しくてしかたなかったそうです。上京前、藤子不二雄Ⓐ先生は富山新聞社で働いていました。小学生の時からコンビで漫画を描いてきた藤子・F・不二雄(藤本弘)先生から「東京へ行こう」と誘われてがくぜんとするのです。藤子不二雄Ⓐ先生には、面白くなりかけていた仕事があり、恋心を抱いていた女性がいましたが、漫画家を目指すことになるのです。

 藤子不二雄Ⓐ先生のお話のなかでも心に残ったのは、実物を見せていただいた「テラさんからの手紙」です。

 テラさんこと寺田ヒロオ先生は、「背番号0」「スポーツマン佐助」「スポーツマン金太郎」などの野球漫画で次々にヒット作を生み出した漫画家です。1953年から57年にトキワ荘に暮らし、まだ若かった藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らを物心両面で支えて、「トキワ荘のアニキ」として慕われました。

67年前のアニキの手紙

  「テラさんからの手紙」は、1954年、憧れの手塚治虫が住んでいたトキワ荘14号室に引っ越しを考えていた藤子不二雄Ⓐのもとに届いたものです。「手塚先生が敷金を2、3カ月待ってくれるのだったら、前家賃を1日も早く持っていったほうがいい。グズグズしているとすぐに他の人が入ってしまうでしょう」という内容に始まり、食費や光熱費はいくらかかるか、自炊に必要な調理道具の一覧、住民登録をするための豊島区役所までの地図、そして、アパートへ引っ越したらその日のうちに石ケン1個に名刺を添えて各戸へ挨拶周りをすることなど、トキワ荘での生活をスムーズに始めるための、きめこまかな助言が4枚の紙にぎっしり書かれています。

 「テラさん」は当時23歳。自身も新潟県新発田市から上京して1年経つか経たないかの頃です。その若さでこの面倒見の良さ。地方から出てきた仲間を気遣う親心に驚いてしまいます。そして、藤子不二雄Ⓐ先生が67年前にもらった手紙をきれいに保存していたことにも胸を衝かれるのです。

 藤子スタジオの応接室に座る藤子不二雄Ⓐ先生の後ろには、忍者ハットリくんのぬいぐるみなどと一緒に、 72歳で亡くなった赤塚不二夫先生の若い日のポートレート写真を入れた小さな額が飾られていました。トキワ荘ゆかりの漫画家の中で今もお元気なつのだじろう先生や鈴木伸一先生とは、しょっちゅう連絡を取り合っているとお聞きし、その絆の深さを思い知りました。

裸電球でバターを温め

 すでに人気漫画家だった手塚治虫は別格でしたが、寺田ヒロオ、藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ、鈴木伸一、森安なおや、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、 水野英子、よこたとくおらは、漫画家になることを夢見て上京した若者でした。とはいえ当時、漫画だけで食べていくのは難しく、夢のまた夢に青春を賭けて爪に火を灯す日々を送っていました。

 日本のアニメーターの草分けの一人、鈴木伸一先生は、藤子不二雄漫画に登場する「ラーメン大好き小池さん」のモデルとして有名です。「トキワ荘時代には、ほんとうにお金がなくて、ガス代が払えないので藤子不二雄Ⓐ氏の部屋でお茶をもらったり、テラさんに温かなものを食べさせてもらったり。部屋の裸電球でバターを温めたこともある」と取材時に話してくれました。

 鈴木伸一先生は、印刷会社でポスター描きなどをしていましたが、東京へ出たくて新聞漫画で活躍していた中村伊助氏を頼って山口県下関から上京しました。中村氏の家は狭いのに常に居候がいる状態でした。部屋が空いたと連絡を受けて、鈴木先生は上京することができたのです。挨拶に行った『漫画少年』の編集部でテラさんと知り合い、しばらくしてテラさんから「部屋が空いた」と手紙をもらってトキワ荘へ引っ越したのです。

「聖地」の歴史は手塚治虫の入居で始まった

 『漫画少年』は、トキワ荘の漫画家たちを語る時に外せない存在です。終戦から間もない1948年、漫画編集者の加藤謙一氏が自宅を発行所として細々と始めた雑誌でした。加藤謙一氏の四男・加藤丈夫氏は、「私の兄である宏泰が父の仕事を手伝っていたが、宏泰が結婚して住むことになったアパートに『手塚さん、東京で住まいを構えるなら一緒に住もう』と誘ったのが、あの『トキワ荘』である」と、 エッセイ「『漫画少年』と編集者加藤健一」(『トキワ荘マンガミュージアム―物語のはじまり』)に書いています。漫画家たちがトキワ荘に集まるようになった発端はここにあるのです。手塚治虫がトキワ荘に入居した半年後、やはり加藤宏泰氏の紹介で寺田ヒロオが住み始め、手塚や寺田の勧めでマンガ家の卵たちが集まってきたのです。

 『漫画少年』で大反響を呼んだのが投稿ページでした。全国の漫画少年たちがこぞって投稿し、入選して作品が掲載される回数が増えることで自信をつけてプロの漫画家を目指すようになりました。ギャグ漫画の「アンコさん」などで好評を博したよこたとくお先生は、「上京してプラスチック工場で働きながら、『漫画少年』に投稿していました。投稿ページを見て赤塚や石ノ森を知り、手紙のやりとりをしていました」と語ってくれました。

 よこたとくお先生は、土曜日になると赤塚先生が働いていた江戸川区小松川の化学薬品工場の寮へ泊まりに行きました。つげ義春先生も赤塚先生を訪ねて来て、夜通し漫画の話をしたそうです。貸本漫画を描くようになったよこた先生と赤塚先生は工場をやめ、一緒に東小松川の家賃1000円の下宿に住んで漫画を描くことに専念していきます。トキワ荘へはまず石ノ森先生が入り、赤塚先生、よこた先生の順に引っ越しました。

紅一点の水野英子さん

 トキワ荘の紅一点は水野英子先生です。15歳でデビューし、下関の漁網工場で働きながら、カットやコマ漫画を書いて東京の出版社に送っていました。やがて石ノ森先生、赤塚先生と組んで「U・マイア」名義で合作を始め、少女漫画誌に発表をするようになります。第1作の時は下関にいて、東京と原稿を郵送でやりとりして仕上げていたのですが、2作目に取り掛かる前にトキワ荘の部屋が空いたので上京しないかと編集者に勧められて飛んで来たのです。18歳の水野先生はプライベートでも石ノ森先生、赤塚先生にひっついて、すぐ近くの銭湯へ行くのも三人一緒でした。お金に余裕があると本かクラシックレコードを買い、石ノ森先生のステレオで聴かせてもらったそうです。先輩マンガ家が描く姿を目前にし、水野先生はみるみるうまくなり、編集者を驚かせたそうです。

 トキワ荘通い組の一人、篠田ひでお先生の逸話もユニークです。高校卒業後、手塚氏のアシスタントに採用されるのですが、取りやめになるのが怖くてアシスタントが寝泊りする部屋に 鳥取県の実家からどーんと布団を送りつけたのです。「本人よりも先に布団が来たのは君が初めてだ」と手塚氏に驚かれたそうです。篠田先生は徹夜で手塚氏の仕事をした帰りにトキワ荘に寄りました。向かうのは藤子不二雄の二人の部屋。すでに4、5人がごろごろしていました。「二人が描いているのを見るだけで勉強になるし、僕もがんばろうと刺激を受けることができた」と篠田先生は言います。

  当時、漫画は子供の読物として蔑視され、まだ市民権を得ていませんでした。まして、漫画家という仕事は職業として認識されていなかったのです。そのことは取材の中で複数の先生からお聞きしました。『漫画少年』というわずかなツテはあったものの、それ以外のアテもなく漫画家をめざすということは想像を絶する勇気がいることだったと思います。それでも漫画を描きたいという純粋な衝動に押されて、漫画家を目指して上京したのです。

 進学や仕事、あるいは夢をかなえるために上京した人間が最初に抱くのは、誰も知らない都会に居るという不安と開放感など複雑に入り混じった感情ではないでしょうか。上京してトキワ荘に集った漫画家の卵たちも、これからやっていけるのかという不安でいっぱいだったでしょう。でも彼らは一人ぼっちではなかったのです。

 中央線沿線に住む貧しい作家仲間と交流し、太宰治を庇護した井伏鱒二のように、トキワ荘にも「テラさん」というアニキがいました。漫画はもちろん、映画や本、音楽について語ることができる気の合う仲間がいました。だから食費は削っても、漫画に打ち込むことができたのでしょう。

 昭和という時代の一時期、その後、日本を代表する漫画家たちがトキワ荘に集ったことは奇跡だったのでしょうか。彼らのエピソードを知れば知るほど、彼らの一途さは尊く、貴重なものに感じられるのです。(2022年5月10日掲載)


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