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村田諒太、ゴロフキンとのビッグマッチに導かれた「運命」

同じリングで雌雄決した両雄

 そのボクサーについて、村田諒太(帝拳)は「強さの象徴」とまで言い、尊敬の念を抱いていた。ゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)。4月9日。さいたまスーパーアリーナでの世界ミドル級王座統一12回戦で、世界ボクシング協会(WBA)同級王者だった村田は、国際ボクシング連盟(IBF)王者のゴロフキンに9回TKOで敗れた。36歳の村田と、対戦前日の8日に40歳の誕生日を迎えたゴロフキン。当初は昨年12月末に組まれたが、新型コロナウイルスの影響で延期になり、ようやく実現したビッグマッチ。村田とゴロフキンは、「運命」に導かれるように同じリングに立った。(時事通信ボクシング取材班)

◇ ◇ ◇

 村田にとってゴロフキンは、プロになる前から背中を追い続けた存在だった。およそ10年前、2012年6月。ロンドン五輪を2カ月後に控えた取材で「参考にしている選手」を問われると、2人の選手の名前を挙げた。

 「ミゲル・コットが参考になりますね。いいボクシングをしますしね。あと、ゲンナジー・ゴロフキン。世界選手権も優勝しているし、アテネ五輪の銀メダリスト。強いですよ」

 コットは12年5月に王座から陥落していたものの、既に世界3階級を制覇した実績があり、後に4階級制覇も達成することになるスター選手。その頃から有名だったコットに対し、ゴロフキンはWBAミドル級のタイトルを保持し、同年5月に淵上誠を相手に4度目の防衛に成功していたものの、ボクシングの「本場」米国でのデビュー前。まだ世界的には名の知れた存在ではなかった。

 「ボクシングファン」を自認し、選手に関する知識も豊富な村田。既にその力を見抜き、参考にもしていた。

一度は引退表明、一転プロ転向

 村田はロンドン五輪で、ボクシングの日本選手では48年ぶりとなる金メダルを獲得。その後、一度は引退を表明したが、現役続行を宣言し、プロに転向した。五輪後にボクシングから身を引いていれば、当然ながらゴロフキンとの戦いが実現することもなかった。

 13年にプロデビュー。すると翌年、目標とする選手とスパーリングで拳を交える機会に恵まれた。

 「その時は、やはりゴロフキン選手の強さというものを実感した。ただ、自分が通用するという部分も感じて。世界の壁の厚さ、高さを感じたと同時に、(そこに)登りたいなと思った」

 当時の村田は、五輪金メダリストという肩書こそあれ、プロでの実績はまだほとんどなかった。それでも今、ゴロフキンは8年も前のスパーリングのことを「もちろん覚えている」と言う。

 「質の高いスパーリングだったことは覚えている。諒太はガッツのあるファイターで、それがスパーリングにも表れていた。彼やチームはとても真剣な態度を取っていたし、取り組み方はとても健全だった」

 やがて2人は、紆余(うよ)曲折を経て、世界王座の統一を懸けて戦うことになる。

「僕より強いチャンピオンがいる」

 村田は17年10月に、2度目の世界挑戦でアッサン・エンダム(フランス)を破り、日本選手では竹原慎二以来2人目のミドル級世界王者となった。大きな夢をかなえたが、リング上のインタビューでは現実的な言葉を口にした。

 「今は4団体ありますし、いろんな強いチャンピオンがいます。ここ(会場)にいる、ボクシングが本当に大好きな人は、僕よりも強いミドル級のチャンピオンがいることも知っています」

 観客席からは呼応するように、「ゴロフキンだ!」と声が上がる。ベルトを腰に巻いた村田は、その方向に顔を向け、「そう。そこを目指して頑張りたいと思います」。ファンの期待に応えるように、そう宣言した。

失意の敗戦、再起決意が運命の糸に

 18年4月、日本のミドル級王者として初めて世界王座の防衛に成功。同年10月には2度目の防衛戦がラスベガスで組まれた。

 会場こそ違うが、同じラスベガスでゴロフキンは18年9月15日に、サウル・アルバレス(メキシコ)=現スーパーミドル級4団体統一王者=との再戦に臨んだ。この日のラスベガスには、村田が契約するトップランクのボブ・アラム氏も姿を見せていた。アラム氏は「もしきょうゴロフキンが勝ったら、われわれはトム・ローフラー(ゴロフキンのプロモーター)と話をする。来年の早い時期に日本で日曜の午前、アメリカ時間の土曜夜の時間帯に試合をしたい」。東京ドームという具体的な会場名まで挙げ、「村田―ゴロフキン戦」に向けた具体的なプランを口にしていた。

 しかし、その夜、ゴロフキンはアルバレスに判定でプロ初黒星を喫し、長年にわたり君臨し続けていた王座から陥落。翌月に村田が王座を防衛すれば、まだ対戦の目は残されていた。だが、村田も10月20日、ロブ・ブラント(米国)に0―3の判定負けを喫した。

 試合翌日の記者会見で、ゴロフキン戦について「ここで負けてしまったら(その試合は)なくなると思っていた。運命的なところで、勝てばそういうのが待っていたし、負ければそれがなくなる。そういう運命になかったのかなと。自分の実力がそこに達していないというのを改めて知るきっかけになった」。無念さをにじませ、現役続行を明言せずに帰国の途に就いた。

 夢の対決はついえたかに見えたが、村田の言葉を借りれば、ゴロフキンとは拳を交える「運命」にあった。「(ブラントとの)試合直後は98%やめるつもりだった」そうだが、「あれが自分の集大成でいいのかと考えると、このままボクシングを終われない」と再起を決意した。

 19年7月にブラントに2回TKO勝ちし、王座を奪回すると、同年12月には初防衛に成功。一方のゴロフキンも再起戦を挟み、同年10月にIBFの王座に返り咲いた。

日本ボクシング史上最大のイベント

 ゴロフキンは10年8月にWBAミドル級のタイトルを獲得し、その後18年5月まで17連続KOを含む世界戦20連続防衛を果たした。その名チャンピオンと、日本選手2人目のミドル級王者との王座統一戦は「日本ボクシング史上最大、最高のイベント」などと宣伝された。

 その一戦は、ゴロフキンにとって約1年4カ月ぶり、村田にとっては実に約2年4カ月ぶりの試合。日程が延びた約3カ月間で、村田は実戦に向けた練習を中断することなく続けていたという。ファイトプランが、延期となった時間で固まったことも「間違いないです」。ゴロフキンの研究に関する熱心さは、帝拳ジムの本田明彦会長も感心するほど。「すごく研究している。よく毎日(ゴロフキンの映像を)見られるな、というくらい」

 圧倒的な強さを誇るゴロフキンだが、「ボディーに弱点がある」というのが定説。ボクシング関連の知識が豊富な村田が、それを知らないはずはない。

 「1ラウンド目が勝負だと思っている。前に出てプレッシャーをかけられればチャンスはあるが、簡単にいなされたり、(相手の)ジャブで懐に入れなかったりしたらきつい」。決戦の12日前、公開練習後の囲み取材で、ポイントをそう分析していた。

序盤にペースをつかむも…

 そして運命の4月9日。宣言通りに、臆することなくゴロフキンとの距離を詰めた。村田が前に出て、相手を下がらせる思い描いた展開に持ち込み、強烈なボディーブローを入れた。2回はジャッジ3人のうち2人、3回は3人全員が村田を支持。序盤はペースをつかんでいた。

 ゴロフキンの顔が、徐々に紅潮していく。場内には「大声での歓声禁止」との張り紙があったが、「番狂わせ」を期待するファンからは村田を後押しする声援が上がる。しかし、そこは名だたる王者。「もう一発」を打たせてくれなかった。

 「ボディーは効いたなという感じがあってよかったけど、右ストレートをいなすというか、ゴロフキン選手が強く当たる距離でもらってくれないという感じ。前で殺すというか、それがすごくうまかったですね。右を打っているんですけど、『のれんに腕押し』みたいな感じがして、微妙に距離がずれるんですよね。あのあたりの技術というのが、ゴロフキン選手が打たれ強いと言われる要因なのかなと思いました。『もう一発』『もう一発』と思っていたけど、右の感覚がどうしても合わなくて、腰を引いてボディーを遠くにやって、ボディーが当たらないようにだったり、その対応力のうまさや技術的なところだったり。やっぱり僕より一枚も二枚も上手だった」

 ガードの堅い村田に対しても、腕の隙間から打ち込むジャブ、ガードの脇から回り込むようにして当てるフック、そして打ち下ろすような独特なフックを着実に当ててくるゴロフキン。ジャブにさえ力があるだけに、村田は次第に消耗する。こうして試合の主導権は移っていった。

 「(原因は)ダメージの蓄積ですね。パンチ力自体は、これならガードしたら何とかなるという感じだった。ただ、角度を変えて、途中から入れられ始めた。その角度の多彩さで(当てられるようになって)蓄積していった感じ。こっちはプレッシャーを掛けているけど打たれた。そこの技術の幅というか、それをすごく感じた。本当にうまかった。こんなにうまいんだと思った」

「ちょっと楽しい瞬間」

 アマチュア時代から参考にし、プロになってからは目標であり続けた。長く待ち望んできた対戦だったからか、村田は劣勢に立たされても簡単には倒れなかった。中盤以降、徐々にロープを背負って攻め込まれ、足が止まった場面も目立った。それでも、ゴロフキン戦が終わるのを惜しむかのように、ふと息を吹き返したかのような反撃に転じた。

 しかし、9回。強烈な右フックをまともに受け、よろめきながらキャンバスに両膝をつくと、セコンドからタオルが投げ込まれた。

 苦しい戦いだったはずなのに、リング上の村田は試合を楽しんでいるようだった。ラウンド間にコーナーに戻った際には、笑顔に見える瞬間もあった。試合後の記者会見で、それについて問うと、顔を腫らした村田は時折タオルで涙をぬぐいながら言葉を紡いだ。

 「試合会場に向かう時、『いい意味で楽しんでこい』と(本田明彦)会長に言われて、『そうだよな』と思って。オリンピックが終わって、プロになって、憧れの選手と試合ができて。それをチキンになって終わるんじゃなくて、しっかり。楽しくなかったけですけどね。しんどいから。でも楽しい場面もありました。『ゴロフキンとやっている』とか、『打ち合えている』とか、『意外といけている』とか、『あっ、ボディーが効いた』とか。そういう、どこまでいっても、もしかしたらボクシングファンみたいなところがあるかもしれないですね。ずっと昔から海外の試合を見てきて、そこの一流選手とやっている自分がいるのが、うれしかったのかもしれないし。『楽しんでこい』と言われたのがうれしかった。『それでいいんだ』と思って。プロに来てから全然楽しくなくて。勝たなきゃいけないし。金メダリストとしてのプレッシャーがあったんですけど、最後に『楽しんでこい』と言われたのがすごくうれしくて。楽しくはなかったですけどね。ちょっと楽しい瞬間というのもあったのかもしれない」

3カ月遅れの「お年玉」

 ゴロフキンからすれば、想像以上の苦戦を強いられたはずだ。試合後には、健闘した村田に背中にニックネームの「GGG」が刺しゅうされた、おなじみの青いガウンを着せた。

 「あのガウンは、カザフスタンのチャパンという民族衣装。チャパンを最も尊敬している人に贈るという習慣がある。村田選手への敬意を表して着せた」。試合後の記者会見に参加したプロモーターのローフラー氏は、ゴロフキンが対戦相手にガウンを贈った光景は見たことがないと明かした。

 カザフスタン出身で、米国を拠点とするゴロフキンだが、村田との戦いが日本でどのような意味があるのかを意識していた。当初12月末に予定されていた試合を前にした書面インタビューでは、返信にこんな思いがつづられていた。

 「もっとボクシングを見たいと思わせる戦いをしたい。どんなスポーツも新しいファンを引き込むことが活力となる。この戦いは世界タイトル戦以上の意味があり、日本では国民的なイベント、そして世界では国際的なイベントになるだろう。今回の戦いは、ボクシング界への『お年玉』だ」

 会場には1万5000人のファンが詰めかけ、試合後も会場を後にすることなく、村田とゴロフキンに拍手を送った。日本ボクシング史に刻まれる一戦は、日本のファンへの3カ月遅れの「お年玉」になったに違いない。

(2022年5月3日掲載)

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