昨年秋に99歳で死去した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん。その晩年を支えた秘書の瀬尾まなほさんが4年間にわたってつづったエッセー集「寂聴さんに教わったこと」(講談社)が発売された。
ほぼ同時期に執筆された寂聴さんの長編エッセー「その日まで」(同)も同時に出版され、併せて読むと、それぞれの視点から見た寂聴さんの晩年の様子が興味深い。寂聴さんが暮らした京都市の寺院「寂庵」で、瀬尾さんが思い出を語った。(時事通信大阪支社 小澤一郎)
―「その日まで」が寂聴さんが亡くなられて初めての本になる。寂聴さんはどう考えていると思うか。
文芸誌での連載が瀬戸内にとって自慢でした。講談社の月刊誌「群像」で、99歳になっても毎月連載を持ってることが自信につながってたんですね。
なので、私が体調的にもう止めた方がいいんじゃないかと、何度も伝えましたけど、「連載持てるってことは、作家としてすごくうれしいことなんだ」と言ってました。作家生活が70年以上過ぎていても自分の本が売れる、たくさんの方に読んでもらえるっていうのは何よりもうれしかったと思う。「1月になったら2人の本が出るから、先生一緒に宣伝してね」とか、「記者会見一緒にしましょうね」とか言ってたので、隣にいたら、自分のことだけでなく、きっと私のことを話してくれてると思う。並んで本が出ることに瀬戸内も喜んでくれているでしょう。
―それぞれの本で、一番寂聴さんを表している部分はどこか。
山形で泊まって年越しをした時、瀬戸内がベッドに、私が布団をひいて寝ていたんです。そうしたら上からどすんと瀬戸内が落ちてきたんですよ。
「新年早々、何が落ちてきたかと思ったらおばあさんだった」みたいな感じで書いたら、瀬戸内がこれを読んで、「こんなことあったね」って爆笑していたのを思い出します。
すごく褒めてくれて、私が書くことを面白がってくれていました。(死去する直前の昨年)9、10月にも、「私が死んだらいろいろ書くことも増えてくるだろうけれど、何でも書いていいからね」って言ってくれたのがすごく印象的でした。
「その日まで」は、私が読むと本当の、晩年の瀬戸内の心境を表しています。晩年、私が聞いてたことが、そのまま文章にも表れています。
「瀬戸内はもう、いつ死んでも、後悔はなかったんだろうな」と、つくづく感じました。いつも「早く死にたい」「早く亡くなった方、いいな」とか言ってたので、今、瀬戸内が亡くなって、皆さんがすごく惜しまれているんですけれども、これを読むと、本当に本人は何にもこの世に未練がないというのをすごく感じます。「私、書いてなかったらもっと早く死んでるよ」とも言ってたので、本当に死ぬまで作家でありたかったし、作家だったと感じます。
―印象的な一文は。
「結局、人は人を愛するため」っていう、この本の帯に使われてる所ですよね。「結局、人は、人を愛するために、愛されるために、この世に送り出されたのだ」「100歳近く生き続けて、最も大切なことは、自分の生きざまの終わりを見届けることであった」、あとやっぱり「充分、いや、十二分に私はこの世を生き通してきた」っていうのが、もう全く未練がない、生ききったってことの表れかなって思います。
―執筆によって、自分自身の生きざまを振り返っていたということか。
そうですね。90歳のおばあさんが主人公だったり、私が時々出てきたり、生活が小説にもすごく表れていたんですよ。フィクションとノンフィクションの合間を瀬戸内は行ったり来たりしていて、それが独特な書き方になっていたのかなと感じられます。しんどいけれども書く場所がある。書いたら評価していただけるっていうのが、瀬戸内にとって生きがいだったでしょう。
―「その日まで」などの作品で瀬尾さんが「秘書のモナ」として登場する。寂聴さんが作品で瀬尾さんのことを書くことについて、どう思っていたか。
いいことを書かれるにはいいですけれど、ありもないこと書かれ腹も立ちました。「(他の寂庵のスタッフと)二人で、私の手と足を持って地面にたたき付けて、私は畳で顔を擦りむいた」というような部分です。そんなことしたことないんですけど。そんなことも書かれると、本気に取って怒ってくる人もいるので、それは本当に困ると瀬戸内に言ったことがあります。
瀬戸内は笑ってましたけれど、結局、瀬戸内の周りにいると全てネタにされてしまうので、被害者の方がいっぱいいるんですよね。
なんか、ふとした日常も、「あのときの会話、こんなふうにして小説になるんだ」と、私だったら聞き流してしまう所が瀬戸内の印象に残って、それをこんなふうに使うんだと驚きがありました。晩年の作品にちょこちょこ出させてもらえたのは、私の場合、うれしいことでもありました。困ることもありました。
―寂聴さんと瀬尾さんの2冊の本を同時に出版することについて。
瀬戸内と一緒にこの場で記者会見するのが、当たり前だと思っていました。年末に瀬戸内がこの世からいなくなって、自分の中でも整理は付いていないんですけれど、本が出たことですごく瀬戸内が喜んでくれていると感じています。
この時代に本が出るのはすごいことなんだよっていつも言ってくれて、こんなに本が出てるのに瀬戸内も1冊1冊本が出るたびにすごく喜んでいたんですね。私に本が出る難しさ、書き続ける難しさを、常に瀬戸内が姿で見せていたので、同時に本が出ることは隣に瀬戸内がいないことはすごく残念ですけれど、私はうれしいです。
亡くなった後だからこそ、瀬戸内の文学や考え方、生きざま、私が見たありのままの素の瀬戸内をこの本を通じてたくさんの方に知ってもらえたらうれしい。
―寂聴さんの作品で好きな作品、同世代に薦めたい作品は。
「美は乱調にあり」はもちろんですけど、やっぱり「夏の終(おわ)り」が好き。その時その時の本当に瀬戸内の心境が表れているフレーズに、私の中でしびれる部分がすごくあるんです。経験に基づいて書いてあるんですけれど、ずっとベストセラーで読まれている理由が分かります。単なる不倫小説ではなく、自分の中の葛藤がすごく表れている作品です。
10代、20代には、分かりにくいかもしれないですけれど、30代、40代、50代っていうのは通じる部分があったり、自分との葛藤だったりっていうのがすごく表れている作品です。
基本的には「死に支度」は、自分が思う存分出ているので、私にとってすごく心に残る作品。瀬戸内からの手紙も入っている小説なので、すごく好きな小説ではあります。
―2冊の本の装丁について。
瀬戸内は、黄色が好きだったんですよ。「寂聴さんに教わったこと」の装丁はお任せだったんですけれど、絶対、この黄色の装丁を見て、「すごくいいね」って言ったに違いないです。瀬戸内の好み、喜んでくれそうな装丁になったと思います。
(「その日まで」は)以前、「群像」で連載していた「いのち」にリンクしている気がします。「いのち」は、真っ赤な装丁で、それとリンクして、黄色も赤も入り、瀬戸内の情熱、最後まで書き続けた強い意志を感じる装丁だと思う。
誕生日には100本黄色のバラをいただいたこともあります。法衣も紫と黄色と黒があって、黄色を着るとすごく華やかで、とても似合っていました。私は、黄色のセーターをプレゼントしたことがあり、原色が似合ってました。
―瀬尾さんは、生きづらさを抱える少女や若い女性を支援する「若草プロジェクト」のような社会にコミットする活動もされているが、その根源的なエネルギーは?
私が「若草プロジェクト」に参加することになったのは、「自分のことばかり考えてはいけない。宇宙と自分、世界と自分、日本と自分ということを常に意識しなさい」と言われたことがきっかけです。私に言うというのは、本人もそういう気持ちがあったのでしょう。
作家としては、自分のことを考えていればいいんですけれど、瀬戸内は反戦や反原発など社会的な行動もいっぱい起こしました。その元にあるのは自分の戦争経験。日本は勝っていると思っていたけれども、結局、負けていて、自分の母や祖父が防空壕(ごう)で焼け死んだ。自分の目で見て、自分で触って、自分で感じたものしか信じない。
そこの所から、反原発デモに関しても、自分がデモに参加したことで社会が変わるわけではないと思っている。でも、「こういうことを言った人がいる、反対した人がいるっていうことは歴史に残るでしょう」と私に教えてくれたんですね。
行動すること、間違っている、おかしいと思ったときに、行動することの大切さ、それが結局実るか実らないかではなくて、自分の思ったように行動しろっていうのが瀬戸内の考え方です。
いろんな方がバッシングされることがあります。(論文に不正があったとされた)小保方(晴子)さんもそうなんですけれど、そういう方々に瀬戸内が手を差し伸べていたのも、みんなが敵だとしても自分は味方、そういう気持ちがあるからだと思うんですよ。
根本は、困ってる人をほっとけないというのがあると思うんです。私から見たら「これ以上、仕事を増やさなくていいのに」とか、「また、面倒くさいことをするな」と思っちゃうんですけれど、そういうことは考えてない。「何か感覚的に動いてしまうところが、瀬戸内のすごさだったな」と今は思います。私自身も、自分のことだけを考えているのはつまらない。もうこの歳になって、社会のためにとか、誰かのためにっていうのは必要なんだろうなって、瀬戸内を通じて思いました。
―寂聴さんが女性を愛し、助けようとされたのはどうしてだろうか。
瀬戸内は、女性が弱い時代に生まれて、その中で「なにくそ」と思って生きてきた。普通の受け身の人生ではなくて、自分で切り開いた。周りにもそういう方々がいっぱいいて、女流作家としては難しい時代を生き抜いてきたので、「女として」っていうところはあると思いますね。
女として生きづらい時代を生きてきたからこそ、今、女性がこうやって活躍していることを好ましく思っていました。「今の時代はすごくいいな」っていつも言ってました。
ー寂聴さんには、女性ファンが多い。中でもシニア世代の女性の尊敬を集めたのはなぜか。
女性から見てもかっこいい女性だったと思うんです。こんなふうに強くあれたらいいなとか、本当はこう生きたかったけれど、こうは生きられないよね、みたいなところを全てやってしまっている。それにやっぱり潔いじゃないですか。
後悔してる時もありますけれど、基本的に自分に自信があったし、自分の仕事だったり、自分のやりたいようにやってきた。そこは同じ女性から見ても憧れる部分もあります。私も、強さをすごく感じるので、この人だったら何でも話せるんじゃないか、聞いてもらえるんじゃないかとか、そういう器の大きさみたいなものがありました。
いつもニコニコしていて、でも、その辺りの男性より男らしい、本当にかっこいい人だったなって感じる。カリスマ性がありました。女性らしいイメージはなくて、おてんばで、すごく男前な人だったなと感じます。
―秘書になっての10年間でどんなところが変わったか。
一番は、何でも挑戦できた。何でもしようと思えたのは、後ろを振り向くといつも「大丈夫だよ」って背中を押してくれた瀬戸内の存在がやっぱり大きかった。
私は、できない理由を先に探して、自分が傷付かないように納得させるところがありましたが、瀬戸内が、私以上に私のことを信じてくれた。そういう人がいたことは、私にとって大きかったんです。
99まで走り続けた瀬戸内のような生き方は私はまねできないですけれど、せっかくこの世に生まれてきたんだったらやっぱり情熱を持ってやりたいように突き進みたい。悲観的にならず、自分で道が開けるっていう、瀬戸内の強さみたいなものは感じさせてもらえた。瀬戸内とともに10年間過ごしたのが、自分の中で大きな財産です。
―今後もエッセーを書き続けるか。
瀬戸内は、書くことを続けていきなさいって言ってくれていました。機会をいただけるのであれば、書き続けられればいいなと思っています。
―寂聴さんが勧めていたという小説を書く予定はあるか。
全く書くつもりがないんです。瀬戸内を見ていると、エッセーと小説は全く違う世界でした。私の中では、この言い方悪いんですけれど、エッセーは作文、日記みたいなようなものだと思っています。小説は世界が違い過ぎて、瀬戸内にちょっとおだてられたからって軽々しく入れるような世界じゃないって思うんです。
瀬戸内が自分の命を削りながら続け、時にはやっぱり体調的にもしんどいけれども、何とかこう生み出す、その苦しみみたいなものも身近で感じました。小説家として芽が出ない方も見てますし。自分が入ってはいけない世界な気がしています。そこはもう、手を付けないでおこうって思っています。
◇ ◇
瀬尾(せお)まなほ 1988年、兵庫県生まれ。京都外国語大学卒業後、「寂庵」に就職。瀬戸内寂聴さん晩年の秘書を務めた。著書に「おちゃめに100歳! 寂聴さん」「寂聴先生、ありがとう」など。
(2022年4月7日掲載)