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モーグルの堀島行真、両親も感じた成長 北京五輪「安心の銅」は金メダルへのステップ

視線はミラノ・コルティナダンペッツォ五輪に

 2月の北京冬季五輪で日本勢のメダル第1号となったのは、フリースタイルスキー男子モーグルで銅を獲得した堀島行真(トヨタ自動車)だった。前回の2018年平昌五輪は、まさかの転倒があって11位。その悔しさを晴らそうと再び臨んだ大舞台は、予選を一発で通過できないなど順調にはいかなかったものの、最後は一回りも二回りも成長した姿でしっかりと結果を残した。とはいえまだまだ、幼い頃に夢見た「金メダル」への道のりの途中だ。日本のエースは、28歳で迎える26年ミラノ・コルティナダンペッツォ五輪での頂点を見据えている。(時事通信運動部 前田祐貴)

◇ ◇ ◇

 堀島の北京五輪は予想外の展開で始まった。上位10人が決勝に進む予選1回目。第2エアのコークスクリュー720(軸をずらした2回転)で「飛び過ぎた」といい、着地でバランスを崩した。ターン点も大きく減点。16位で予選2回目に回ることになった。

 2日後、予選2回目を難なく突破。さらに20人から12人に絞られる決勝1回目、6人が残る決勝2回目も順調に勝ち進んだ。だが、メダル獲得者が決まる決勝3回目で、またもや試練が待っていた。

転倒危機も「心で滑った」

 第1エアのフルツイスト(伸身後方宙返り1回ひねり)の着地で、バランスが乱れた。こぶに足を持っていかれそうになり、「諦めようかなと思ったぐらい危なかった」。それでも、応援してくれた人々の姿が頭をよぎり、必死にこらえた。

 持ち前の安定したターンを取り戻し、第2エアのコークスクリュー1080(軸をずらした3回転)も見事に成功。「点数とかはあまり関係なく、心で滑っていた」。ゴールでは、堀島にしては珍しくガッツポーズも飛び出た。今大会で25秒台が続いていた滑走タイムは23秒86。攻めの滑りでタイム点を稼いでターンの減点をカバーし、2人を残して1位に。メダル獲得が確定した。

 「最低限、表彰台というところを掲げてやってきて、期待のかかる中でそこを取ることができたのはよかった」と胸をなで下ろし、「安心の銅メダル。皆さんの応援に対してのメダル」と喜んだ。一方で、頂点には届かなかったことを「結果としてのゴールは金メダルかなと思う。そういうステップとして、銅メダルがあった」と表現した。

「考える力」身につけた日記

 岐阜県出身。わずか1歳でスキーを始めた。冬の週末、スキー場へ行くのが日課だった両親に連れられ、2学年上の姉、有紗さんと一緒に雪に親しんだ。小学1年の頃には、こぶの斜面を滑り始めたという。規模は小さいながらもモーグルの大会で優勝。三重県桑名市のウオータージャンプ場「K―air」の1カ月利用券をもらったことが転機になった。エアの楽しさにはまり、4年生になってからはモーグルに打ち込んだ。

 夏休みには車で約1時間かけてK―airに通い、いろいろな技を試しながらプールに繰り返し飛び込んだ。運動神経抜群だったことから、たった2日でバックフリップ(後方宙返り)に成功したという。夏休みの宿題は「ウオータージャンプ日記」が定着。父の行訓さんが撮影した動画のキャプチャー写真を添え、日々の上達の様子を自分の言葉で記録に残した。行訓さんは「技ができるようになるために、第1、第2、第3段階でどんなことをしたらいいのかという組み立ても自分で考える力を身につけた」と振り返る。

エアの難度にこだわって失敗

 めきめきと実力をつけ、中学3年でナショナルチーム入り。2013年からワールドカップ(W杯)にも出場するようになったが、世界の壁は厚く、予選落ちが続いた。初めて上位16人の決勝に進んだのが、岐阜第一高1年だった14年3月のボス(ノルウェー)大会。1試合で約30万円かかるという遠征費用を両親に出してもらった負い目も感じていたからか、予選通過を泣いて喜んだという。

 その後も順調に成長。中京大1年で臨んだ17年の世界選手権では、モーグル、デュアルモーグルの2冠獲得を成し遂げた。翌年に控えた平昌五輪の金メダル候補として、一躍注目を集めるようになった。迎えた五輪シーズン。武器にしていたのは、幼少期から得意としてきたエアだった。ダブルフルツイスト(伸身後方宙返り2回ひねり)とコークスクリュー1080という最高難度の組み合わせで、本番直前のW杯トランブラン(カナダ)大会も制した。

 平昌の直前、難しいエアの構成にこだわり続ける堀島を心配し、行訓さんは「ちょっと難度を落としてもいいから、確実に滑れよ」とアドバイスをしたという。しかし、それに対する返信は「無理です」だった。決勝2回目。家族が見守る前で、第1エアで着地した後、バランスが崩れて転倒。母の則子さんは、息子の当時の胸中をおもんぱかった。「エアが得意なのに、何でエアで失敗するんだろうという感じだった。後で映像を見たらすごく泣いているし、あんなに悲しいことはなかったんだろうなと思う」

北京までは安定感重視

 堀島本人は平昌五輪前の自分について、こう話す。「1位を取るために、自分の110%、120%の滑りで挑むなど、余裕がない状況だった」。その反省から、北京五輪までの4年間は結果への執着心を捨て、自身の滑りそのものを見つめ直した。練習量を抑え、体のケアにも重点を置いた。行訓さんも「質を重んじた練習をするようになってきた」と、練習量だけを追い求めていた頃からの成長を感じている。

 視野を広げ、他競技からモーグルに生かせる体の使い方を探ってきた。その範囲はフィギュアスケートやスノーボードといった冬季競技から、水泳の高飛び込み、体操、パルクールにまで及ぶ。海外選手と英語でコミュニケーションができるようになりたいという思いも抱いた。堀島らトップ選手が愛用するモーグル用のスキー板「ID one」を販売するマテリアルスポーツの社長、藤本誠さんの仲介で、シーズンオフに渡米。米国ナショナルチームの練習にも参加し、選手の家にホームステイしたそうだ。

 今季の開幕前、堀島は家族に「今年(21~22年シーズン)は違うよ。世界一のターンを見せたい」と宣言。平昌直前に行訓さんが忠告してくれたことに触れ、「今年はお父さんの気持ちもよく分かる」と伝えたという。言葉通り、今季は第1エアにフルツイストを選び、難度を抑えた構成で戦ってきた。その理由を、自身は「競技の特性上、1個もミスができない。リスクを背負うと、(五輪の決勝の)3本連続で成功させる可能性が低くなってくる」と話していた。狙いは的中し、北京五輪までのW杯全9戦で表彰台に。平昌五輪の直前はそれが1度だけだった。見違えるほどの成長ぶりだ。

超大技の解禁も示唆

 その安定感を五輪本番でも発揮し、銅メダルにつながった。常々「最低限の目標」と話していた表彰台を確保したが、もちろん満足したわけではない。視線は既に、4年後の次回五輪に向いている。「自分が引退するまでには金メダルを取りたい。今回は金メダル候補と言っていただいた。4年後もそういった選手でい続けたい」。円熟期に迎える大舞台をにらみ、力強い言葉を並べた。

 北京五輪では、堀島より3歳下のバルテル・バルベリ(スウェーデン)が平昌五輪金メダルの絶対王者、ミカエル・キングズベリー(カナダ)をしのいで頂点に立った。キングズベリーと堀島の「2強」ムードが崩れる結果にも、「いろんな選手が勝てる時代になってくれば楽しい。みんなにチャンスがある」と歓迎した。

 超大技「解禁」の可能性も示唆した。今季は封印したコークスクリュー1440(軸をずらした4回転)について、「4年あれば、また使えるだけの精度にはなる」。全体的なエアの難度向上も予想し、技の進化に追随していく自信を見せた。

 今季のW杯は残り3試合。初の種目別優勝も狙える位置につけている。4年後のさらなる飛躍へ、まずは今季を気持ちよく締めくくりたいところだ。

(2022年3月10日掲載)

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