亡き恩師と目指した舞台
2019年に陸上の世界室内ツアーで日本選手初の総合優勝を果たし、同年7月には世界ランキングで1位に浮上。男子走り高跳びで2メートル35の日本記録を持つ戸辺直人(29)=JAL=は、まさに日本陸上界の歴史に名を刻む活躍を続けてきた。21年夏の東京五輪では日本勢で49年ぶりに決勝へ進出。24年パリ五輪でのメダル獲得、自身の日本記録更新を見据え、さらなる飛躍を期す。(時事通信ロンドン特派員 青木貴紀)
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亡き恩師と表彰台を誓った舞台。それが東京五輪だった。会場の東京・国立競技場に入場した時、「やっとここまで来たんだ、とこみ上げるものがあった」。予選は2メートル28を軽やかに一発でクリア。調整は完璧、のはずだった。
踏み切り足の左アキレスけんに違和感があり、予選後に痛みが強くなった。決勝は2メートル27を3度失敗して13位。体はよく動く。ただ、痛くて思うように踏み切れなかった。「けがなく行けていたら、と自分でも楽しみだった。すごく調子が良くかった。ニアミスだったと思う」
「2メートル40を跳んで金メダルを獲得」。ぶれずにそう言い続けてきたからこそ、日本勢49年ぶりの決勝進出は「通過点」に過ぎなかった。「そこに対する喜びは大きくない。日本記録保持者になったら、『日本人初』などとは違うステージに行く。あまり興味を持たなくなると言ったら変かもしれないが、自分がやることは基本的に日本人では初めてという意識」。あくまで勝負の土俵は世界にある。
目に焼き付けた金メダル争い
親交の深いムタズエサ・バルシム(カタール)、ジャンマルコ・タンベリ(イタリア)の2人が2メートル37で金メダルを獲得。銅のマクシム・ネダセカウ(ベラルーシ)まで同記録を成功した。「正直、(自身が持つ日本記録の)2メートル35を跳べばメダルに届くラインだと思っていた。これから世界でメダルを取るためには、37以上が必要になってくる。日本記録を更新して、メダルを獲得することを一つの目標にしたい」。パリへの決意を力強く宣言した。
決勝の激しいメダル争いを最後まで間近で目に焼き付け、遠い世界には感じなかった。「正直、技術や地力で劣っているとは思わなかった。出すべき能力を出せばここで戦えたなと本当に思った」。悔しさがこみ上げると同時に、メダル争いができる自信もみなぎった。「体力や技術を劇的に改善していくというより、そこは微調整して良いものを探っていく。本当に重要なのは、その場でどれだけ力を出せるかだということをまた痛感した」
世界選手権はパリへのステップ
19年2月にドイツで行われた室内競技会で日本記録を13年ぶりに更新。満足することなく、2メートル40に目標を設定した。踏み切り位置を約30センチ後方にずらす大胆な技術改善に取り組み、理想の跳躍を築き上げてきた。東京五輪で痛めた左アキレスけんの故障は長引き、3カ月半ほど跳躍練習はできなかった。今年1月末から一度欧州へ遠征し、室内競技会に出場。帰国後も本格的なシーズン開幕に向けて跳躍技術の精度を高めている。
3月18~20日の世界室内選手権(ベオグラード)は、12位につける世界ランキング(3月1日時点)で出場権を得られる可能性がある。今季は7月の世界選手権(米オレゴン州)を「パリ五輪に向けた最初の重要なステップ」と位置付ける。「3月後半に2メートル30ぐらいに記録を持っていければ」と語り、春以降に世界選手権の参加標準記録2メートル33を狙うつもりだ。
16年6月。筑波大入学時から指導を仰いだ同大学の元監督、図子浩二さんが52歳で死去した。「世界でメダルを取れる」。恩師は戸辺の可能性を誰よりも信じてくれていた。戸辺は筑波大大学院に進んで走り高跳びを研究し、博士号を取得。アスリート、そして研究者として競技といちずに向き合ってきた。究める旅路は道半ば。母国の大舞台での経験を原動力に、より高く舞い上がる。
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戸辺 直人(とべ・なおと)1992年3月31日生まれの29歳。千葉県出身。専大松戸高から筑波大へ進み、1年時の2010年世界ジュニア選手権で銅メダルを獲得した。大学院博士課程で走り高跳びを研究。19年2月に2メートル35の日本新記録を樹立し、同年の世界室内ツアーで日本人初の総合優勝を果たす。19年春にJAL入社。世界選手権は15年と19年に出場。東京五輪は13位。194センチ、74キロ。「研究の息抜きが練習で、練習の息抜きが研究」と話す理論派ジャンパー。
(2022年3月7日掲載)