「自民党はわれわれの修正案をほぼのむ形となった」。公明党の石井啓一幹事長は1月末の党会合で所属議員を前に、中国の人権状況に懸念を示す国会決議をめぐる交渉結果について、こう勝ち誇った。決議文からは「非難」などの文言が落ち、中国を刺激したくない公明党の意向が反映される一方、対中強硬派に不満が残った。
中国が絡むと、公明党はこうした対応をしばしば取る。なぜ中国にこだわるのか。カギとなるのは50年前の国交正常化。そこに至る壁を破り、以後も日中関係を支えてきた自負がある。公明党「親中」の歴史を追った。(時事通信政治部 御舩亮史)
結党時に「国交正常化」
「親中」のルーツは1964年の公明党結成までさかのぼる。結党大会で採択した活動方針で、日中国交正常化を提唱した。
ただ、当時は東西冷戦のさなか。「敵方」の共産主義陣営に属し、国連にも加盟していない中国は遠かった。自民党には中華民国(台湾)との関係を重視する向きが多く、中国とのパイプも細い新興政党の公明党に打つ手は限られていた。
潮目が変わり始めたのは68年。支持母体・創価学会の池田大作会長(現名誉会長)が国内での講演で「アジアの繁栄と世界の平和のため、最も重要な要として中国との国交正常化、中国の国連参加、貿易促進に全力を傾注すべきだ」と主張。この発言は日中双方で注目を集めた。
強い関心を寄せた一人が、日中友好に心血を注いだ自民党の松村謙三元文相だ。佐藤栄作政権で非主流派だった松村氏は70年、池田氏と面会し、協力を要請。同時に、中国の周恩来首相らに公明党のことを紹介した。
日中貿易に貢献した自民党の高碕達之助元通商産業相も、中国と公明党の関係を取り持ったとされる。高碕邸は東京・信濃町の創価学会主要施設周辺にあった。
71年6月、中国から招請電報が届き、公明党単独での初の訪中が決まる。この訪問は参院選期間中から約3週間に及び、並々ならぬ力の入れようがうかがわれた。
角栄の特使
ニクソン米大統領が初めて中国大陸の土を踏んだ72年、公明党代表団は5月と7月の2度、中国へ渡る。
その7月の訪問時、当時のトップである竹入義勝委員長は、田中角栄首相の事実上の「特使」として周首相と会談。毛沢東主席の同意を得た中国側の方針として、最大の懸案の一つである戦争賠償請求権を放棄するとの言質を取る。こうした会談記録を手書きでまとめたのが、いわゆる「竹入メモ」だ。
帰国した竹入氏は田中首相にメモを手渡し、成果を報告した。日米安全保障体制に言及しないとの周首相の意向も伝えられ、手応えを感じた田中首相は訪中を決断。竹入メモを基に外交文書の作成が進み、同年9月の日中共同声明へとつながる。
以来50年間、公明党は「平和の党」を掲げることもあり、対中関係の発展に力を注いできた。94年に当時の新進党に合流するまで計19回、党の訪中団を結成。98年の公明党再結成を経て、自民党と連立政権を組んだ99年からは、中国共産党との政党間交流を続けている。
2004年には、自民党とともに中国共産党と政治、経済、外交など幅広いテーマについて意見交換する「日中与党交流協議会」を設置。相互交流を深めた。
井戸を掘った人
中国側がなぜ、対日関係の橋渡し役に公明党を選んだのか。50年たった今も不明な点は多いが、島根県立大の別枝行夫(べっし・ゆきお)教授(戦後日本政治外交史・日中関係論)は「当時、日本で一枚岩な政党は公明党だけだった」と解説する。
社会党などの野党は対中姿勢をめぐって党内が割れ、自民党は親台湾・対中強硬派の声が強かった。田中首相は日中関係で失敗すれば権力基盤が崩れかねず、安易に踏み込めない状況にあった。
実際、竹入氏が訪中前に田中首相と打ち合わせた時、田中首相は積極的な姿勢を示さず、具体的な草案を出さなかった。このため、竹入氏は危うい交渉に入らざるを得なかった。
別枝教授は「中国は日本以上に国交正常化したかった」と指摘する。70年ごろは中ソ対立が激化し、中国はソ連との軍事衝突に備え、日米との関係構築を急ぎたい事情があった。
ここで、対中関係をめぐり党内に亀裂が生じる可能性のほとんどない公明党が仲介役として登場する。日本とのパイプを築くには「渡りに船」だったというわけだ。
中国には「飲水思源」という成句がある。「井戸の水を飲む際には、井戸を掘った人の苦労を思え」という考え方だ。日中関係では、まさに公明党は「井戸を掘った人」に当たり、中国側はこうした経緯を踏まえて公明党を重視してきた。
習氏、初会談に山口氏指名
その歴史は現在のトップ、習近平国家主席の体制でも生きている。習氏が山口那津男代表と初めて会談したのは07年11月。当時、山口氏は代表就任前だった。
習氏は10年に中国の次期最高指導者に内定後も、12年に共産党総書記に就任後も、それぞれ初めて会談する日本政界の要人として山口氏を選んだ。前者の会談が行われた10年12月、公明党は野党だった。
後者の会談時(13年1月)、日中関係は沖縄県・尖閣諸島の国有化を受けて緊迫化していた。その中で山口氏は安倍晋三首相の親書を手渡し、日中首脳会談を提案。習氏は前向きな姿勢を示し、翌年秋の初会談につながった。
くすぶる訪中「花道論」
だが、新型コロナウイルスの世界的な流行により、公明党代表団の中国訪問は19年8月を最後に途絶えている。山口氏が習主席と最後に会談したのは17年12月。その時は100カ国以上の政党首脳が参加する国際会議に合わせた短時間の面会にとどまった。
香港や新疆ウイグル自治区などでの人権弾圧、尖閣周辺の領海侵入もあり、日本側の対中感情は悪化の一途をたどる。米中対立が深まり、ウクライナを侵略したロシアと中国の接近に警戒感が高まる現在、訪中再開は容易ではない。
一方で、日中国交正常化50周年を今年9月に控え、日中関係を改めて軌道に乗せたいとの思いは公明党内に強い。山口氏は代表就任13年目。ちょうど今年9月に7度目の任期切れを控えて交代がささやかれており、訪中が「花道」になるとの見方もある。
その場合、習主席と会えるかがポイントだ。中国トップとの会談は訪問期間中に決まることが多く、実現しないケースもある。年々進む中国の権力集中も難しさに拍車をかける。訪中経験のある党幹部は「習氏の権威は会うたびに上がっている。もはや皇帝のようだ」と語る。
今年の訪中は実現するか。中国はコロナウイルスを徹底的に封じ込める「ゼロコロナ」政策を取っており、公明党側にも「難しい」(幹部)との声が漏れる。
ただ、別枝教授は対米関係の改善をにらむ中国指導部の方針として、「国交正常化50周年を祝い、日本との外交関係を戻したいはずだ」と分析。中国と太いパイプを持つ自民党議員が減る中、中国側は今回も仲介役として公明党に期待するとの見方を示している。
(2022年3月11日掲載)