プロ野球12球団が2月1日、キャンプインした。1月10日に82歳で亡くなった水島新司さんも毎年、楽しみしていた球春到来。野球の見方を広げてくれた水島作品の中でも、現実のプロ野球を克明に描いたのが「あぶさん」だった。とりわけ南海ホークスを舞台にした時代には、「大人の野球」の世界があった。(時事通信社 若林哲治)
パにふさわしい主人公
「あぶさん」の連載開始は1973年。主人公の景浦安武が72年オフにドラフト外で南海へ入団するところから始まる。スカウトは「野球狂の詩」の老投手と同じ名、似た風貌の岩田鉄五郎。景浦の高校時代の監督だった。
景浦は2年夏の甲子園新潟県大会決勝でサヨナラ本塁打を放ちながら、塁を回る途中で嘔吐(おうと)。二日酔いがばれて優勝は取り消され、岩田も引責。社会人で細々とプレーしていた景浦が、酒のトラブルで懲戒免職になったところへ、長打力を忘れられない岩田が声をかけた。契約金50万円、年俸100万円。「あぶさん」の由来は、強いリキュール「アブサン」と「安武」の音読みにある。
ディテールを敷き詰めたリアリティの中を生きる登場人物やそのプレーが、野球の可能性を信じさせてくれた水島作品。当時、野球部員の飲酒や喫煙など珍しくなかった。県大会どころか、夏の甲子園決勝に二日酔いで出た元プロ野球選手を知っている。「南海・景浦」誕生エピソードからして、意外に(?)リアルなのだ。
73年は野村克也捕手兼任監督の就任4年目。パ・リーグの前後期制が始まった年で、南海は前期とプレーオフを制して7年ぶりのリーグ優勝を果たしたが、日本シリーズでは巨人の9連覇を許す。「セ高パ低」の時代に入っていた。
景浦はパにふさわしい通好み。「大人の野球選手」だった。酒で震える手が、バットを持つとピタリと止まる。集中力と勝負強さ。野村監督を「いぶし銀やな」とうならせ、代打男として貴重な戦力になっていく。
70年代には、作品にも登場する阪急(現オリックス)の高井保弘らが代打男として知られていたが、脇役だった。当時は地味な存在だった捕手を「ドカベン」の主人公(山田太郎)にしたように、代打男の主人公にも水島さんの先見性と野球を見る視野の広さがうかがえる。
全ての「野球人」を等しく
選手だけではなかった。「あぶさん」にはフロント、球団職員、景浦行き付けの居酒屋「大虎」に集うディープなファンなど、さまざまな人たちが登場し、景浦に代わって主役を張る週もあった。
通訳の市原稔、マネジャーの鈴木正、打撃投手兼スコアラーの西村省一郎…。私も南海担当になって「この人があの市原さんか」などと思いながら、名刺を交わした。裏方さんを取材より先に漫画で知った経験は、後にも先にもない。雨天中止や延長戦による移動予定の変更を想定した切符の手配など、神経を張り巡らした仕事ぶりも「あぶさん」で知っていた。
野球はチームプレーであり個人と個性の集積でもある。フロントから家族、ファンまで実に多くの人たちが各々の力を合わせて成り立つ。「あぶさん」はその人々を等しく描いた。
しかし、73年の優勝を最後に南海は長い低迷期に入る。翌74年から南海最後の88年まで、監督は野村、広瀬叔功、ドン・ブレイザー、穴吹義雄、杉浦忠と代わっても、この15年間に2位が2回、3位と4位が1回ずつ。あとは5位か最下位だった。過去の栄光はすっかり色あせ、コテコテの南海ファンが「阪神は関西のチーム。大阪の球団いうたら南海のことやで」と力説する言葉に、意地と哀愁がにじんでいた。
「考える野球」とマスコミ格差
「記者も選手も頭を使って野球せんかい」と、野村監督が担当記者にハッパをかける場面がある。景浦を評価した理由の一つも、打撃の読み。「あぶさん」では当時から「考える野球」が描かれているが、野村野球は監督解任後の解説者時代に「野村スコープ」などで野球通の間で知られ、一躍脚光を浴びたのは90年のヤクルト監督就任以後だ。南海とヤクルトの成績の違いだけでなく、セとパのマスコミ格差は大きかった。
パのファンは、球場に行かない限り、76年から6試合全ての結果を映像で伝える構成になった「プロ野球ニュース」(フジテレビ系)と「週刊ベースボール」だけが情報源のような時代だ。77年、景浦の義弟・小林満が日本ハムに入団した時、パのファンはささやかな快哉(かいさい)を叫んだ。
ある時、景浦が左打席で練習しているところを担当記者が見つけ、野村監督を囲む。「左に転向するらしいで」。翌日、スポーツ紙の1面記事を見てほくそ笑む野村監督。景浦の左打ちはミートを修正するためだった。
いかにして紙面を奪うか。パでは現実によく見られた光景だ。門田博光は雨で試合が流れると雨中のランニングを決行。シャワーを浴びて記者席へ現れると、普段は近寄りがたい門田が気さくに話し込み、終わり際に「どや、(原稿)いけそうか?」と聞いた。
野村監督解任の夜、景浦は
景浦は野村監督の信奉者として描かれる。77年のシーズン中、新聞に「野村監督解任」に大見出しが載った日、景浦は「大虎」へ閉店間際にやっと現れた。一人静かに飲み明かすようにと、おやじさんとのちに景浦の妻となるサチ子は、景浦を残して帰る。
野村監督と親しかった水島さんだが、解任劇の背景には踏み込まなかった。描かなくとも、ファンの間ではかまびすしい見解や再建論が交わされた。せめてチームが浮上すれば救われたが、監督が代わっても低迷は続く。
漫画でもテレビ番組でも「偉大なるマンネリ」が魅力の長寿作品は多いが、勝負の世界にあって、あまりに長かった南海の低迷。佐藤道郎、山内新一、江本孟紀、藤田学、金城基泰、山内孝徳、藤原満、柏原純一、カルロス・メイ、山本和範…挙げ切れない「いぶし銀」ぞろいで、江夏豊がリリーフ革命を起こしながら、順位は上がらなかった。
次第に景浦の役回りが変わる。本来、飲み過ぎで集中力とスタミナが続かないことで収まった代打稼業。75年に指名打者(DH)制が始まった時も、作中では「DH景浦」を期待する声に反して片平晋作がDHに座る。
それがやがて、DHになり外野も守るようになる。86年には、三冠王を獲得した落合博満(ロッテ)と本塁打王を争い、53本でタイトルを分け合った。ペースが落ちた終盤、起用法をめぐるコーチ会議で藤原満コーチが「今のホークスファンにはあぶのホームラン王しか楽しみがないんやで」と言う。この年は杉浦監督の1年目だったが、最下位。現実の南海ファンにとっても、楽しみは漫画の中の本塁打王争いだった。
取り残される南海
翌87年は夏まで優勝争いに加わる。最終的には4位だったが、10年ぶりの「Cクラス(5、6位)」脱出といわれた。39歳の門田が31本塁打を放ち、打率も6年ぶりに3割を超えた。1年後れで景浦を追うような展開。
もう書いていいと思うが、このオフ、球団首脳に相談された。「門田の年俸、どないしたらええやろ。もはや査定の領域は超えてます。ナンボなら本人もファンも納得するか、分かりまへんねん」。高額の更改には慣れていなかった。
門田の年俸は「0」が多い話だからまだしも、お金にまつわるわびしい話が山ほどある。ある選手の契約更改交渉が長引いた。自分の年俸の話はそこそこに、練習場と2軍本拠地である中百舌鳥球場(大阪府堺市)のトイレの便器を直してくれと掛け合っていたという。「ワシの給料削ってもええからと言うてんのに、あかんて」
和歌山での秋季キャンプは宿舎が系列旅館。団体客が入ると選手たちは部屋を移動し、2軍の若手は押し入れで寝た…。その手の話を、記者でさえ幾つも知っているのだから、選手や関係者が語れば三日三晩で終わらない。
南海でそんな日常が繰り返される間、85年には阪神が21年ぶりのセ・リーグ優勝と初の日本シリーズ制覇を果たす。パでは西武が盟主になり、工藤公康や渡辺久信ら「新人類」選手たちが若いファンをつかんでいた。西武球団の営業戦略も奏功し、野球観戦はカップルやファミリーの「ピクニック」になり、本来はライオンズ買収のために造ったのではない所沢の球場へ、人が集まった。
南海の大阪球場は、サンダル履きのおっちゃんが競馬新聞を手に「野球でも見よか」とやって来る。近所では「ドカベン」香川伸行が、ママチャリの前かごに大きなマクドナルドの袋を載せて走っていた。
それらは庶民の娯楽である野球の大切な光景であっても、ミナミのど真ん中に建つ大きな閑古鳥の巣は、いかにも非生産的だった。年間観客動員は87年に夏場までの健闘で26年ぶりの80万人台を記録したが、阪神はもちろん西武の半分にも届かない。南海は関西でもパでも取り残されていた。
そして最後の日々
88年夏。経営譲渡騒動が表面化する。今度は本当だった。譲渡先は当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのダイエー。しかも本拠地を福岡へ移すという。新聞紙上に初報が出た日、南海は近鉄戦で名古屋にいた。グラウンドへ出る選手たちが、みんな目を伏せていた。
大阪球場での最後の試合は10月15日、近鉄戦。超満員の観衆3万2000人が詰めかけ、上空を報道ヘリが行き交った。
水島さんの姿もあった。漫画家デビューの前に過ごしたこの地とこの球団を愛した水島さんの胸中は…。囲んで話を聞いた記憶があるが、残念ながらメモが手元にない。
「3番、センター、佐々木、4番、指名打者、門田…」。先発を発表するウグイス嬢の声が涙で詰まった。試合は6-4で南海の勝利。試合後、杉浦監督は仰木彬監督に「優勝争いをしている時にすまなかった」と声を掛けた。「ジェントルマン杉浦」らしい気遣いだった。近鉄は西武、阪急と激戦の大詰めで、4日後に球史を飾る「10・19」を迎える。
仰木監督は「福岡で頑張ってください」と返した。現役時代、杉浦監督は南海のエース、仰木監督は福岡が本拠地だった西鉄(現西武)野武士軍団の内野手。ともに戦後のパ黄金時代を担った2人の、不思議な交錯でもあった。
「あぶさん」では試合展開が違う。南海が0-1で迎えた9回裏2死無走者から、門田が安打で出て、景浦が代打逆転サヨナラ2ラン。追いつ追われつの大接戦で泥臭く勝った現実の試合の方が、南海らしかった。今にして思えば、これが「福岡編」で景浦が変わっていく兆しだったのかもしれない。
この年「不惑の2冠(本塁打王、打点王)」を獲得した門田が福岡行きを拒み、阪急改めオリックスへ移籍した。「あぶさん」でも41歳・景浦の去就が注目されるが、「大虎」を訪れた杉浦監督と「福岡へ来てくれるね」「お供します」の短いやりとりで現役続行が決定。この後、2人で盃を交わす。
実際の杉浦監督も酒好きで、酔うと誰彼となく「結婚しよう」と言った。男にも言うから罪はない。私も言われた。「あぶさん」を読みながら、この後で景浦にも言ったのかなと思うと、愉快だった。
金持ちの家にもらわれた子
資金の潤沢な親会社に変わったチームは、さぞ強化に金をかけるだろうと思った。ダイエー初年度のある日、近鉄担当として行った平和台球場で杉浦監督に会い、「何年くらいで優勝できそうですか」と尋ねると、「そんなん無理や」。隣で裏方さんが続ける。「やってるやつ(選手)一緒やで」。正直なところがまだ南海だなと、妙にほっとした。確かに経営譲渡の条件として「ホークス」の名を残し、初めは首脳陣や選手らもほとんどそのままだった。
しかし、少しずつ違う球団になっていく感覚もあった。三宅一生デザインのユニホーム。フォントが変わった「Hawks」のロゴ。新外国人ウィリー・アップショーは、いかにも大金をかけて獲得した大リーガーの雰囲気を漂わせていた。
93年には開閉式の屋根を備えた福岡ドームが開場した。計画が発表された時、「あぶさん」の中で、「大虎」を訪れた中内㓛オーナーに常連が毒づく場面がある。
「チームを強うするために銭を遣(つか)うんが先決やろがな。贅沢(ぜいたく)なオモチャばっかり与えても子は良うならん。銭がのうてもハングリーの中でもがいとった南海時代が懐かしいわい」
一緒に鼻をたらしていた幼なじみが突然、金持ちの家にもらわれていったような感覚を、多くの南海ファンが抱いていた。主を失った大阪球場がしばらく住宅展示場として使われたのも、信じがたい光景で、やるせなさが募ったものだ。
アウトローから「球界の至宝」へ
ホークスの成績はダイエーでも低迷が続き、田淵幸一、根本陸夫両監督の時代を経て王貞治監督の下で優勝したのは、譲渡から11年目のこと。選手や首脳陣の顔ぶれは大幅に入れ替わっていた。
その後はパを代表する球団となり、営業努力が実って「野球は永遠に西鉄」だった九州の人々の間に人気も根付く。すっかり別の球団に成長し、大阪の飲み屋で「いっそホークスの名前を変えてくれたら良かった」とつぶやくファンの声を何度か聞いた。
この間に景浦は4番DHとなり、91~93年に3年連続三冠王を獲得。94年には王を抜くシーズン56本塁打のプロ野球記録を達成し、95年には景浦が本塁打王と打点王、義弟の小林が首位打者に。96年には景浦の長男・景虎が中学生でダイエーからドラフトで指名される―。
水島作品が先見性に富み、現にスポーツ選手の寿命は延びたとはいえ、現実との乖離(かいり)が広がった。打者として悩む景虎が、80年代前半の父の打撃の映像を見て「おやじが一番良かった頃」と言うせりふは、「あぶさん」そのものに思えた。
弱小球団の酔いどれ代打男は「球界の至宝」となり、ついに62歳まで現役を続けてなお惜しまれつつ、引退する。引退後は助監督となり、「景浦監督編」として続くのかとも思われたが、2014年にホークスを退団し、連載は976回目で終止符を打つ。コミックは107巻に達していた。
長い旅の終わり
大阪球場最後の試合後、杉浦監督は「福岡へ行ってまいります」とあいさつした。その杉浦さんは01年に66歳で鬼籍に入っている。景浦を拾い、育てた「ノムさん」は20年2月に84歳で亡くなった。
大阪球場跡地に建つ「なんばパークス」にある「南海ホークスメモリアルギャラリー」には、03年の開場当時から、展示されている往年の選手のユニホームやバット、球団年表などに「ノムラのノの字」もなかった。77年の解任劇が生んだ恩讐のためだが、死去後に江本さんらの尽力でユニホームなどが展示されるようになり、昨年2月に「おかえり!ノムさん 大阪球場に。」と題したイベントでお披露目された。
敷地内には、関係者の功績を称える手形とサインのプレートも並び、水島さんのそれには景浦が描かれている。ソフトバンクを退団した景浦が、「ノムさん」を「監督、お帰りなさい」と迎えたことだろう。
そして水島さんが亡くなった。「あぶさん」に描かれ、「あぶさん」とともにあった南海ホークスがようやく、長い旅から帰ってきたように思える。(一部敬称略)(2022年2月3日掲載)