体操男子の個人総合で2012年ロンドン、16年リオデジャネイロ両五輪連覇、世界選手権6度優勝などを遂げ、11日に現役引退を表明した内村航平(33)が東京都内で記者会見し、「人生の半分以上、日の丸を背負ってやってこられたのは誇り」と述べた。主なやりとりは以下の通り。
冒頭あいさつ
「特に引退会見ということで特別な感じはそこまで…ただただ引退するんだなみたいな感じで、あまり実感はないです。思い返すと3歳から好きで体操を始めて、1月3日で33歳になって体操歴も30年になり、30年のうち16年間、ナショナル強化選手として活動させていただきました。人生の半分以上、日の丸を背負ってやってこられたのは誇りですし、今後、自分が何をやっていくにしても自信を持っていろんなことを発言していけるのではないかなと思っています。
(引退を)いつ決めたかということは、(東京)五輪が終わって次の世界選手権に向かう道中、練習をしていく中で、ちょっとしんど過ぎたというか、このままだと先が見えないなと感じて、もうこれが最後かなという感じで世界選手権に挑みました。最後は決勝に進んで着地を決めて終わりたいという気持ちで演技して、やり切れた。結果は伴いませんでしたけど、下の世代の選手たちにも『これが体操だ』『本物の着地だ』というところを、僕らしいところを最後に見せられたと思うので、良かったかなと思っています。
きょう引退会見をしていますけど、本来の引退は3月12日なんです。最後の舞台を東京体育館でと思っていて、最後、全身が痛い体にムチを打って6種目をやろうかなと思っています。どういう形でやるかは今後しっかり打ち合わせをして、他の選手も呼びたいと思っているので、しっかり見ていただいて、最後にしようと思っています。6種目ということで、東京五輪代表になるより苦しいことをやらないといけないのかと、ちょっと憂鬱になっていますけど、しっかりやり切りたいなと思っています」
振り返ると、まだまだやれた
<質疑応答>
―笑顔が多いが、今の気分は。
「実際あんまりよく分かっていないです。あまり辞めたいと思っていないというか、やれるならいつまででもやりたいと思っていたので。でも世界選手権に向かう中で、今後は本気で選手としてやっていくのは難しいと感じたので決断をしたんですけど、僕の中ではそこまで重くも、すっきりもとらえていないというか。たぶん3月までやるというのがあるので今はこういう心境かもしれないけど、世界選手権に向かうまでは『これが最後なのかな』という気持ちはありました」
―30年間、どんな競技人生だったか。
「実績だけ見るとかなり残せたかなと思うんですけど、振り返るとまだまだやれたな、あの時にああしておけばよかったなというのはすごくあるので、本当に満足しているかと言われると、そうではないかなと思いますね」
―体操への思い。どんな言葉をかけたいか。
「『ありがとう』とかそんな軽い言葉では感謝を伝えられないというか。僕は体操しか知らないので。これだけ体操というもので内村航平が作られて、人間性もそうだし、競技も結果としてすごく残せたし、感謝している気持ちを返していかないといけないという気持ちがすごく強い。だから今後、体操を世界で僕が一番知っている状態にしたいと思っているので、ずっと勉強し続けたいですね。極めるとか、そういう次元よりもっと上にいきたい」
五輪は自分を証明する舞台
―五輪への思いは。
「僕にとっての五輪とは…。やっぱり自分を証明できる場所だったかなと思いますね。世界選手権が五輪イヤー以外で毎年あって、世界チャンピオンになり続けて、果たして自分は本物のチャンピオンなのかと疑い続けて五輪で証明することを2回もできたので」
―リオ以降の競技生活を振り返って。
「リオ五輪後のここまでは、今まで練習が思うようにいかないことがなかったのが、急に思うようにいかなくなって、痛いところも気持ちでカバーできていたところがカバーできなくなり、練習でどうにか痛めない体を作り上げていくところからやった。練習を工夫して、プロになって普及のこととか体操の価値を上げたいとか考えながらやっていた中で、リオ五輪までとはほど遠い結果でしたけど、その中でも体操を突き詰めていくことでは一番濃い5年間だったと思いますね。
リオ五輪までと今の自分では、体操の知識がかなり増えて、今、世界中のどんな選手、コーチよりも自分が一番知っている自負がある。5年間でいろんなことを研究して知ることができた。終わりがないことも知れたので、今後も勉強し続けていくことで知識の幅も広がるし、こうして引退することで、それをいろんな人に伝えていけるので、通らなければいけない道だったのかなと思います。
良いところばかり知り過ぎていたので、挫折とか、落ちたところからはい上がる力とかは、今後、人に伝える立場として知らなければいけなかったと思う。栄光も挫折も経験できたのは、自分だけじゃなくて、伝えていく立場からすると本当に貴重な経験をさせていただいた」
追い求めてきたのは、着地
―体操をやってきてこだわってきたもの、誇れるものは。
「着地です。これまで個人総合で優勝してきた場面でも、鉄棒の着地(だけでなく)、全種目ですね。世界チャンピオンとして、五輪チャンピオンとして着地を止めるのは当たり前と思ってやってきたので。現役として最後になった世界選手権の最後も、どういう演技でもいいので着地は絶対に止めてやろうという気持ちでやれた。こだわりを持ってやってきて、最後の意地を見せられた。もちろん美しく見せようとか、他の選手と同じ技でも違うような動きに見せたりとかはあるんですけど、やはり着地を止めているという印象を皆さんもお持ちだと思うし、僕自身もそこを追い求めてやってきたので」
―体操人生で最も熱く盛り上がった瞬間、その理由は。
「二つあります。11年の東京での世界選手権個人総合決勝全6種目と、リオ五輪の個人総合の鉄棒。今でも感覚とか見た視界が記憶に残っていて。世界選手権は今まで感じたことがないくらいのゾーンを感じた。朝起きる2、3分前、もうすぐ目覚めるなっていう時があるじゃないですか。それくらいから、きょうは何をやってもうまくいく、という感覚で目覚めて、試合が終わるまで全て自分の思い通りにいった感覚があって。これはもう一生出ないなと思いましたし、ここまで思い通りいくことはないなという、すごい日でした。
リオ五輪の鉄棒は、あれだけの点差を逆転できたのもそうですけど、五輪の体操の歴史にも残せる激闘を、オレグ選手と五輪の会場を2人で支配できた雰囲気を感じられたのが、すごく今でも記憶に残っている。その二つは絶対にもう、今後は味わえないだろうなというのを、感じました」
―11年世界選手権で、なぜゾーンが生まれたと思うか。
「人生で一番、心・技・体がそろっていた時期なのかなと思っています。練習量もそうですし、練習の質もものすごく高かった。メンタルも一番強かったかなと思うし、痛いところも全くなかった。何をやってもできると思っていた時期だったので。でも一番の要因は、世界で一番練習をしていたからだと思っています。あと自分の演技、体操に対してものすごく自信を持っていたので、『失敗をする気がしない』という次元ではなく、『この場をどう楽しもうか』という、強さとはかけ離れたというか、自分一人だけが楽しんでいるような状況だったので、それが強かったのかなと思いますね。
でも、翌年のロンドン五輪でゾーンを再現したいと思いましたけど、ゾーンは再現できるものじゃないし、狙ってやれることじゃないんだなと感じた。1回経験できただけでも、人間をちょっと超えられたんじゃないかなと思います。ゾーンの話をするとたぶん3日くらい寝ずに話し続けちゃうので、ここで止めておきます」
技に名を残すことより、すごいこと
―ウチムラの名前が付いた技はない。未発表の技はあったか。
「未発表の技はもちろん、何個かあります。やっていたら確実に名前が付いていた技が何個かあるんですけど、個人総合でトップを維持するためにやめたというか、必要がなかったからやめたんですけど。実際、13年にアントワープの世界選手権で白井健三が跳馬のユルチェンコ3回ひねりを成功させて、『シライ/キムヒフン』という名前になったけど、あの技は11年全日本選手権種目別決勝で僕が最初にやっているので、健三に取られたというか(笑)。
実際にあれは本当に難しくて、個人総合でやろうと思ったんですけど、1回やっただけで、この技は個人総合でやるのは安定(感の面)で難しいと思ってやめた。3年後にそれを軽々と跳ぶ坊主が現れたので、どうなっているんだという気持ちで見ていた。(新技の名前を)取られたとか悔しいとかいうより、こいつ本当にすごいんだなと思って見ていました。
自身の名前(の技)がない状態で引退を迎えましたけど、逆に自分が個人総合に誇りを持ってやってきた証明になるかなと思うので、それはそれでいいかなと思います。技名を一つ残すよりもすごいことをやってきたと思うので、そこに誇りを持てているのかなと」
―800ある技のうち500をできるとツイートしていた。思いを持っている技、礎になった技は。
「そこまで技を習得できたのも、技を覚える楽しさを知っているからだと思います。技を覚えて一番うれしかった、楽しかった記憶があるのが蹴上がり。小学校1年生か入学前ですけど、僕はクラブでも技を覚えるのが遅い方だったので、蹴上がりを覚えた時の感動が今でも忘れられない。あれがあるから、500(の技)を覚える原動力になったと思うので、それが自分の礎になっているかなと。その中でも印象に残っている技は、『リ・シャオペン』と『ブレトシュナイダー』ですね。
『リ・シャオペン』は自分が習得した中で一番難しかった。(練習のために)動画を見る回数も一番多かったし、考えたし。実際にできても、本当にこれが合っているのかなと思ってやってきた。その後も改良を重ねましたけど、いまだに難しいと思いますね。
『ブレトシュナイダー』も同じで、本当に試行錯誤を重ねてあの領域までいけた。でも試合では1回も落ちていないというのを何かで見た。一つの技に対してそこまで追い求められるから、質や成功率も高いんだろうなと思っているので、そういうところは下の世代にも追い求めていってほしい。答えはないから追い求め続けることが大事なんだよというのは言いたいですね。今後も技は増やしていく予定なので、随時更新していこうかなと思っています」
世界一の練習が積めなくなった
―世界選手権前に引退を決めたのは、けがの痛みがあったからか。心の変化もあったのか。
「体の痛みというより、日本代表選手として世界一の練習が積めなくなったことに対して、自分の中でもうきついな、もう世界一の練習をやるのは難しいなと、そうなると引退かなと思っただけで。体が痛いことは、世界一の練習ができないことにつながると思うんですけど、それよりもモチベーションとかメンタル的な部分で、その状態まで持っていくことが難しくなったということの方が大きいですね。
あと、体操は10個の技をつなげて最後の着地までつなげる練習をやるんですけど、以前は何回も何回も気持ちが保てたし、どんなにしんどい日でもやり切れたんですけど、世界選手権に向かうまでは、五輪の予選落ちとかもあって、かなり気持ちで(練習の量や質を)上げていくことが難しかった」
―引退だけが自分の終わり方じゃないのかもしれないという話もしてきたが、今回の決意に至った経緯は。
「現役引退の定義を自分で考えた時、試合に出ない、競技者じゃなくなることだと自分で思った。競技者じゃなくても体操は続けられると思ったので、競技者じゃなくなったのに現役引退を表明しないでいるのも、世の中的にもそうですし、自分としてもなんかはっきりしないなと。競技者としては一回身を引きますというのを発表した方がいいんじゃないかなと。競技者としてではなく演技者としてやっていくのもいいんじゃないのかなと。
今後いろんなことをやっていくので、ずっと体を動かし続けていくのか、それともやっぱりこういうことが面白いのでこっちに行こう、というのもあると思う。とりあえず決めずに体が動くまではやりたいなと。でも試合に出るのは難しいと思ったので、こういう決断をしました」
あと3年は、100%無理
―現役引退を決断した時、葛藤はあったか。
「続けるとしても、あと1年とかではなく、次の(パリ)五輪も目指したいなという中で考えていた。そう考えるとあと3年じゃないですか。いやあ、そこまではもう無理だなと思ったので、結構すんなりいけました。東京五輪が終わった後で(現役続行か引退か)半々でしたけど、世界選手権までは約2、3カ月、その間だけでもこれだけしんどいのに、あと3年となると100%無理だと」
―今後も体操の理想を追求し、演技者として体操を続けていくか。
「そうですね。3月のイベントは引退試合というか、演技会、エキシビションみたいになるので、終わりでもあるし始まりでもあると思う。演技を見せられる場を今後作ってもいいですし、そうすると気持ちも楽にできるので、リラックスした状態で見せる演技もひと味違って、すごみとかが見えるかなと思う。体が動くまでは体操を研究していきたい気持ちが強くて。技術を研究したいのと、技のやり方に答えがない、答えがない中でも理想のやり方はあるので、一番効率のいいやり方を見つけたい。ルールも五輪ごとに新しくなるので、流行の技や、こういうことをやった方がいいというのを研究したいと思います」
最後は6種目、オールラウンダーで
―引退試合をやろうと思った理由は。
「2年前の3月に自分の名前の試合をやろうとしてコロナでできなくて、それをまたやりたいと思っていた。僕も現役最後なので試合としては難しいと判断して、今まで体操選手で引退試合というか、最後の舞台をやった選手がいなかったので、自分が作ってやると。これから引退していく選手たちに目標にもしてほしいという思いがあった。なかなかできることじゃないかもしれないけど、これだけ結果を残したらこういうこともできるんだよと。僕自身はオールラウンダーでやってきたので、最後に6種目をやって終わりたいという気持ちがあって、やろうと決めました」
―最後に6種目にこだわった理由は。
「やりたくても6種目で代表が目指せないから鉄棒で目指しただけで、僕としてはどんな状況でも6種目やりたい気持ちがあったので。今回の東京五輪を目指す過程が、今まで皆さんが見てきていない部分だっただけで、僕は常に6種目はやりたいと思ったし練習もやっていた。やることは普通だと思います。きついことも分かっているんですけど、やっぱり体操は6種目やってこそという気持ちもあるし、後輩たちも受け継いでほしい。あとは心底好きだからというのもある。最後に鉄棒だけやって終わるのも、自分が自分じゃない感じがするので」
残したもの? ピンとこない
―今後の活動はどのようなビジョンを思い描いているか。
「これを絶対に、という一つのことではなくて、日本代表の選手たち、後輩たちに自分が経験したことを伝えたり、子どもたちに『体操は楽しいんだよ』という普及活動をしたり、体操に関わる全てのことをやっていけたらなと。僕自身も体を動かすことは完全にストップしないと思うので、自分が動いて見せるのも一つ。体操に関わるあらゆることにチャレンジしていきたいですね」
―体操界に残せて良かったものは。後輩や日本体操界への提言は。
「残したものって何なんでしょうね。結果以外に何かあるのかな。でも、結果を残していくことで、その先にある、体操を超えた他の競技の選手たちからもリスペクトされる存在になれたのは非常にうれしかったかなと。別にそれは残したものじゃないので、なんかちょっと違うな。(自分は)何残したんですか? 逆に(笑)。新しくプロという道をつくれたことももちろんそうですね。体操に可能性はまだまだあることを示せたこと。でも、何を残したかといわれると、まだピンときていないのはありますね。
(後輩たちには)体操だけうまくても駄目だよというのは伝えたいですね。人間性が伴っていないと。僕が若い時は競技だけ強ければいいと思ってやってきたんですけど、結果を残していく中で、やっぱり人間性が伴っていないと誰からも尊敬されないし、発言に重みがないというか。僕は小さい時からずっと父親に、『体操選手である前に一人の人間としてちゃんとしていないと駄目だ』と言われ続けて、その意味がようやく分かった。
大谷翔平君もそうですし、羽生結弦君も、やっぱり人間としての考え方が素晴らしいなと思うから国民の方から支持されて、結果も伴っている。そういうアスリートが本物なのかなと思っているので。そういう高い人間性を持った一人の人間に、体操選手としてあってほしいと思いますね。結果を残すのは当然だと思っているので。体操に関してはいろいろあります。美しさとか、着地の大切さとか、6種目やってこそ体操だとか。僕が残してきたことを受け継いでほしいのはありますけど、結果を残してきた身としては、人間性に重きを置いてほしいというのはあります」
―子どもたちへメッセージを。
「本当に自分の好きなことを一つ見つけられると、それが大人になって続いていくことにつながったり、好きなことをやり続けることで、例えば勉強や習い事に変換できたりして、『こうやって頑張ればいいんだ』『こうやってやり続ければいいんだ』と学べる。やっぱり何か好きだと思うことを見つけるのが一番大事だと、この競技を通じて感じたので、そこを見つけてほしいと言いたいですね。
もちろん体操をやる子どもたちが増えてくれたらうれしいですけど、僕はいまだに『体操は楽しいんだよ』ということくらいしか言えないので、『体操をやるとこうなってこうなって、こういうことになるからやった方がいいよ』と自信を持って勧められるように研究して、データを取って、子どもたちに言えるようになりたいなと思っています」(了)(2022.1.14)