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レオ・チン著、倉橋耕平監訳「反日 東アジアにおける感情の政治」(人文書院)【今月の一冊】

2021年10月09日12時00分

「私たち」の無邪気さの先にある孤立

レオ・チン著、倉橋耕平監訳「反日 東アジアにおける感情の政治」(人文書院)【時事通信社】

レオ・チン著、倉橋耕平監訳「反日 東アジアにおける感情の政治」(人文書院)【時事通信社】

 かれこれ約30年前、日本のニューミュージックの女王・中島みゆきが、ある楽曲を発表した。曲の名は『EAST ASIA』。いわゆる「ヨナ抜き」の汎アジア的旋律で、みゆきらしい、達観した歌い声が魅力の佳曲だ。東アジアには、数々の難題が横たわっているけれど、そこに暮らす人々は「私たち」日本と同じ、黒い瞳をしている――。そんなテーゼを高らかに歌い上げた。同名のアルバムには、彼女の代表曲『二隻の舟』『糸』も収録され、1992年当時のチャートを大いに賑わせた。(加賀直樹 ノンフィクションライター)

「アジアの歌姫」と称され、香港、台湾などアジア諸国で現在も人気を博すみゆきだが、この楽曲に貫かれた視座は、30年経った現在、どのように受け止められるのだろうか。

 現実世界に目を向けよう。日本や周辺各国のメディア・SNSを駆けめぐる言葉の「刃」の数々は、悠久のモンスーンの楽曲空間から、およそ遠い地平へと我々を連れていく。特に、アジアの連帯を決定的に分断する言葉の一つが、この本の題名に付けられた「反日」の二文字だと言えるだろう。

 海をまたいだ先に暮らす「彼ら」の感情は、帝国日本による植民地主義と、その前後の歴史を経て構築されていった。そんな「彼ら」に対する「私たち」の無理解の「刃」は今、極右勢力による排外主義や「嫌韓嫌中」の感情へと波紋を拡げている。その「刃」はときに同胞にも向けられる。周辺の国々に少しでもくみする発言をしただけで「反日日本人」「売国奴」呼ばわりされる現実がある(余談だが、朝日新聞出身で、韓国留学経験のある本稿筆者も、何度も浴びせられた言葉である)。

 第2次大戦後に生まれた「私たち」日本人、とりわけ、アジアの近現代史をごくごく概略でしか学んでこなかった身にとっては、「台湾は親日、韓国・北朝鮮や中国は反日」――そう安易に片づけている側面がある。そして「安易な私たち」の多くは疑問に思うのだ。

「戦争はとうの昔に終わったこと。今の日本は平和主義。なのに、なぜ『彼ら』は怒っているの?」

 この本は、そんな「私たち」のイノセントなクエスチョンに対し、中国、韓国、台湾における「反日主義」と「親日主義」の変遷を歴史・政治の面で包括的に掘り下げ、その複雑な感情の移ろいを丁寧に読み解きながら教えてくれる。そして、「私たち」による「植民地支配」を矮小化して平和主義をうたうことが、どれだけ「私たち」をアジアから孤立させていくか、警鐘を鳴らしてくれる。

 まず、ビックリしてしまうのは――あまりにも基本的なことなのだが――、対日感情を表す言葉がじつに豊富であることだ。基本の「き」は「抗日(resist-Japan)」、「反日(anti-Japan)」。前者は日本の帝国主義に対する中国の闘争の努力・成功を伝えるために使われ、後者は国家を統一する政治的権力を構築するため、朝鮮半島や台湾など元・植民地で生まれた考え方だと同書は説いている。

 インターネットのうねりは、新たな波(スラング)を次々と生み出していく。たとえば「精日」。2017年、旧日本軍の軍服をコスプレした中国人男性の画像が中国国内で出回り、大騒ぎになって生まれた言葉だ。「精神的日本人」、つまり「日中の歴史について正しい理解を欠いた者」だとし、中国の政治家・王毅までもが、彼らを「中国人民のくず」と呼ぶ事態に発展した。「日雑」は、親日家をくだらない者として罵る言葉だ。まだまだある。日本を好む台湾人のことを大陸人が軽蔑して呼ぶ「崇日」や、近年の日本文化を心酔する人々を指す「哈日」「萌日」など、枚挙にいとまない。

 心穏やかな「親日」という言葉は、日本海を渡っただけでまるっきり様相が変わる。とりわけ元・植民地の韓国ではセンシティブだ。「親日派」(日本統治に協力した人々)は、かの国では犯罪者として扱われ、法廷にかけられる。

 著者レオ・チンは、こんな混沌の東アジアを俯瞰して語るにふさわしいコスモポリタンだ。1962年、台湾に生まれ、中国東北部・瀋陽出身の父親と、台湾人の母に育てられた。10歳の時に日本に渡り、神戸の住まいから大阪のインターナショナルスクールに通ったのち、米国の大学に進学した。米国では、南京大虐殺や「慰安婦」問題など、日本の帝国主義と植民地主義、帝国研究について学びを深めている。現在、米国の名門デューク大学の日本文化研究、ポストコロニアル研究などを専門とする研究者・教員だ。

 ブルース・リー、ゴジラ、「慰安婦」問題に向き合う映画「ナヌムの家」、それから、台湾に暮らし、日本の支配下で青年期を過ごした後、国民党による再植民地化のトラウマを抱える世代を描いた映画「多桑」――。東アジアの各地で生まれた、こうした作品の背景を読み解きながら、本書は、帝国日本が東アジアに与えてきた負の影をつまびらかにしていく。

 レオ・チンは「すべての反日主義が政治的欲望を持っているわけではないし、日本に対して同じように不平不満を表したりするわけではない」とも説く。中国では、「お上」への抗議や社会不安に対して高まる国民の懸念を払拭するため、国家が「反日主義」を扇動したのに対し、韓国のそれは、元「慰安婦」たちによって示されており、問題の構造や権力関係がまったく異なる、とも記している。

 各々の内情を踏まえたうえで、「反日主義」は、冷戦後のグローバル資本主義によって成長を続ける東アジアでどう化学変化を起こしてきたのか。そして、それに対して「私たち」がなすべきことは――。レオ・チンは、敗戦後の突然の帝国日本の消滅によって、戦後日本がやり残してしまった「脱植民地主義」「脱帝国化」について、「私たち」こそが真摯に向き合うべきだと説く。そして、感情のもつれる東アジアと対話し、「私たち」にこそ和解の道を切り拓いてほしいと呼び掛ける。

 つまりバトンは「私たち」にある。難しいことは分からない、では済まされない。

(2021年10月9日掲載)

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