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デボラ・フェルドマン著、中谷友紀子訳「アンオーソドックス」(辰巳出版)【今月の一冊】

2021年05月08日13時00分

閉塞世界からの脱出 自分探しの冒険譚

「アンオーソドックス」(辰巳出版)【時事通信社】

「アンオーソドックス」(辰巳出版)【時事通信社】

 「生きづらい」「居場所が無い」と悩んでいる人がいたら、そっと本書を差し出したい。程度の差こそあれ、身につまされることが多く、とても地球の裏側の話だとは思えなかったから。(松原慶 著述業)

 著者のデボラ・フェルドマンは、ニューヨークのユダヤ教超正統派「ウルトラ・オーソドックス」のコミュニティーで生まれ育った。ホロコーストを奇跡的に生き延び、想像を絶するトラウマを抱えた人々と、その子孫の街だ。消滅の危機に瀕した民は、同化こそがユダヤ人の大量虐殺を引き起こした神の罰ととらえ、伝統回帰に徹する。

 使用言語は神聖とされるイディッシュ語。口にできるのは、戒律に従った清浄な食品のみ。信仰心を外見で示すことが重視され、男性は髭を蓄え、もみあげを長く伸ばしカールさせ、人目を引く黒い帽子とスーツ姿。男女の世界は二分され、女性は慎み深さが求められ夏でもロングスカートに長袖、歌うことも音楽を聴くことも厳禁だ。既婚女性は髪を剃り、頭をかつらやスカーフで覆わなければならない。インターネットやテレビ、読書も禁止。安息日は物を運ぶことを禁じられ、ベビーカーさえ使えない。

 デボラは物心つく頃から、戒律にがんじがらめの生活に息が詰まり、23歳で、幼い息子を連れて出奔する。3年後、2012年に出版された彼女の回想録は、外部からは謎に包まれた超正統派の内実と、その抑圧に抗った体験を明るみにし、ニューヨークタイムズのベストセラーリスト入りし、30言語に翻訳された。2020年、本書を基にしたドラマがNetflixで配信されると世界的な注目を浴び、エミー賞8部門に選出され、監督が演出監督賞を受賞している。

 彼女の人生は、それまで逆境の連続だった。父親はアルコール浸りで、まるで頼りにならず、イギリス出身の母親は彼女が幼い頃にコミュニティーを捨て、信心深い祖父母に育てられた。「異教徒ほど危険なものはない」と思い込まされ、監視の目が光り、ブルックリンの狭い一角が全宇宙だった。

 だが、女子学校でいじめに遭い、過食に陥る一方、10歳から公共図書館にこっそり通い始める。魂を毒するとされる言語、英語本の「若草物語」や「自負と偏見」を読み、逆境を生き抜く主人公に自らを重ねて心の支えにする。

 抑圧が最も過酷なのは、性に関してだ。月経は不浄扱い。ヒトラーへの究極の復讐は子孫の繁栄と考えられ、早婚が当然視され、避妊や自慰は禁止。女性たちは異教徒から“産む機械”と揶揄される。デボラの祖母も11人の子どもを産み育てた。

 デボラは17歳で親族の決めた相手と結婚する。未経験で知識も乏しい2人は初夜から失敗続き、膣痙(ちつけい)だと分かる。周囲からの妊娠を期待する重圧に押しつぶされそうになり、膣拡張器を自ら挿入しなければならなかった。夫は性交が可能になると、頻繁に欲情し、苦痛でしか無い彼女の身体を利用するようになる。新婚の女友達からは、夫が挿入部位を間違え、腸が破れ血が壁まで飛び散ったと告白されもする。デボラは「数えきれないほどの問題が起きているはずなのに、なぜ誰も声をあげようとしなかったのか」と独り号泣する。

 鉄壁の守りを固め、自警団や診療所、独自の教育機関を持つコミュニティー内も、安全とはほど遠い。デボラは不良の従兄弟に危うくレイプされそうになる。小児性愛者や、父親が自慰する息子の性器を切断し殺害した事件も、罪に問われず隠蔽(いんぺい)された。

 驚愕のエピソード満載だが、翻って日本はどうか。日本にも、カルト宗教2世の問題が存在する。まん延する性暴力や児童虐待、ブラック校則、コロナ禍の自粛警察も頭をよぎる。世界経済フォーラムの「ジェンダーギャップ(男女格差)指数2021」によると、日本は調査対象となった世界156カ国中120位という低さだ。性教育で、性交渉や避妊は教えるべきではないとされ、正しい知識は不足し、望まない妊娠や性暴力の危険にさらされている。日本では中絶こそ認められているが、WHO(世界保健機関)が必須医薬品に指定する中絶薬は未承認で、子宮の内容物を掻き出す、より危険で高額な時代遅れの「そうは術」がいまだに幅をきかせている。彼女の境遇と私たちは、地続きなのだ。

 デボラは出産後、息子により良い環境を与えるため、夫を欺いて大学で文学やフェミニズムを学び、外界に飛び出す足掛かりにした。苦難の末、ほんとうの自分でいられる居場所をようやく手に入れ、「もしも誰かに偽りの自分でいることを強いられているなら、あなたも勇気を出して抗議の声をあげてほしい」という。

 コミュニティーと距離を置いた末、ユダヤ文化の豊かさや、自分の中に息づく誇りにも気付く。祝祭日が多く多彩な食文化や、魂の平穏を求める信仰心、いわゆる世俗派などユダヤ教の多様性も本書の読みどころだ。排他的なコミュニティーを固持したからこそ、独自の言語や文化を守れたことも、事実だろう。何よりも優先されるべきなのは、個人の尊厳と自由だという思いは譲れないが。

(2021年5月8日掲載)

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