時事ドットコムニュース
特集
「サッカーの王様」ペレさん死去
W杯の優勝トロフィーを手にするペレさん=2014年3月9日、パリ(AFP時事)
【サンパウロ時事】「サッカーの王様」「20世紀最高のサッカー選手」と呼ばれた元ブラジル代表の世界的スター、ペレ(本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント)さんが29日午後3時27分(日本時間30日午前3時27分)、結腸がんの転移による多臓器不全のためサンパウロ市内の病院で死去した。82歳だった。病院が発表した。葬儀は…
W杯メキシコ大会、決勝でイタリアを下して優勝し、ファンに担がれて喜ぶペレ(中央上)=1970年6月21日、メキシコ市(dpa時事)
故郷に電気が通じたばかりの時に生まれ、電球を発明したトーマス・エジソンにちなんでエドソンと名付けられた。後にペレと呼ばれ、世界のサッカー界にさん然と輝く存在になった。
ペレさん(左)と現役時代のマラドーナ=1987年6月、スイス・チューリヒ(EPA時事)
サッカー界で最も偉大な選手は王様ペレか、それとも英雄マラドーナか―。これまで世界中で繰り広げられてきた論争だ。
釜本邦茂(左から3人目)の引退試合に招待選手で参加したペレ(同4人目)=1984年8月、東京・国立競技場
親日家として知られたペレさんは日本サッカーの功労者でもある。1976年にニューヨーク・コスモス(米国)の一員として来日。77年には東京・国立競技場で「引退試合」と銘打たれた親善試合が行われ、7万人を超える大観衆を集めた。
W杯スウェーデン大会、準々決勝のウェールズ戦で競り合う17歳のペレ(左端)=1958年6月、イエーテボリ(AFP時事)
「史上最高のサッカー選手」―。数え切れないスターを生み出すブラジルで、ペレさんを形容する言葉は不変だ。今を時めくネイマールですらその存在を超えることのできない不世出の「天才」だった。
2011年10月17日、東日本大震災の津波で被災した宮城県名取市の小学校を訪れたペレ氏(中央)
「ペレ」は幼少時代からの愛称。諸説あり、AFP通信によると、3歳の時、プロサッカー選手だった父の同僚GKビレの名前をうまく発音できずペレと呼んだことが由来となった。
ニューヨークでのイベントでポーズを取るペレさん(左)とベッケンバウアー氏=2015年4月17日、ニューヨーク(AFP時事)
ペレさんは現役晩年に北米サッカーリーグへ移籍し、「不毛の地」といわれた米国のサッカー人気の高まりに大きく貢献した。1975年から3シーズン所属したニューヨーク・コスモスは29日、公式サイトに「ペレは米国のサッカー風景を一変させた」とつづった。
W杯カタール大会の韓国戦後、闘病中のペレさんを励ます横断幕を持つネイマール=5日、ドーハ(AFP時事)
【サンパウロ時事】サッカーが「国技」である王国ブラジルにとって、29日に死去したペレさんは貧困、人種の壁を乗り越えた絶対的ヒーロー。最後まで「王様」の回復を願ったサッカー界からは悲痛な声が漏れた。
国際サッカー連盟(FIFA)の年間表彰式で、FIFAバロンドールを受賞したメッシ(手前左から2人目)と記念写真に納まるペレさん(同3人目)。手前右はネイマール=2012年1月9日、スイス・チューリヒ(AFP時事)
【ロンドン時事】サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会閉幕から10日余り。元ブラジル代表のペレさんの死去を受け、世界中の現役、往年の名選手らから追悼の声が次々と寄せられた。W杯の熱気が冷めやらぬ中、サッカー界は深い悲しみに包まれた。
リオデジャネイロ五輪の招致決定を喜ぶペレ氏(右)ら関係者=デンマーク・コペンハーゲン、2009年10月2日(AFP時事)
【ロンドン時事】ペレさんの訃報を受け、サッカー以外のスポーツ関係者も追悼の意を表した。国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長は「世界は偉大なスポーツ界のアイコンを失った。彼は五輪の価値を真に信じ、五輪の炎を担う誇り高き人物だった」との談話を出した。
新着
会員限定