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最終日の個人マッチは、ちょうど米議会でトランプ大統領の弾劾訴追に関する議論と採決を行っていたタイミング。その真っただ中、議場の机の上のパソコンでプレジデンツカップのストリーミング中継を眺めていた議員が1人いた。PC画面に見入る議員の背中。その様子がばっちり捉えられた写真や動画が、瞬く間にSNS上で拡散され、ちょっとした騒動になった。
よく晴れた冬空の下、日本代表は「感謝のワンチームパレード」と称し、東京駅そばの丸の内仲通りを練り歩き、約5万人の観衆に手を振った。オフィスビルの窓にも多くの人が群がった。感激で泣き出すファンも。日本代表の35歳スクラムハーフ、田中史朗選手も号泣した。「こんだけ、たくさんの人に集まっていただいて、本当にうれしいです」
ラームとケリーは、アリゾナ州立大学の「体育会つながり」。ラームはゴルフ部、ケリーは陸上部に所属し、やり投げの選手として活躍していたそうだ。大学に入った頃のラームは、英語がおぼつかなかったそうだが、「私がデートしながら教えました」。
小学生時代、靴もなく、満足な食事もできず、時には学校に行けなかった。年50ランド(約370円)の学費が払えず、学校ではつらい目に遭ったそうだ。でも、めげなかった。小石をボール代わりにラグビーを始めた。12歳の時に出場した大会でラグビーコーチの目に留まり、奨学金をもらえるようになった。でも、貧乏生活は続く。
タイガー・ウッズが日本で開催されたZOZOチャンピオンシップを制し、故サム・スニードの記録に並ぶ米ツアー通算82勝目を挙げて歴史が刻まれた翌週のこと。ウッズの長年のライバルであり、米ゴルフ界のもう1人のビッグスターでもあるフィル・ミケルソンも、ゴルフ界の歴史に変化をもたらした。
福岡は高校時代、両膝の靭帯(じんたい)を損傷していたが、1浪したことがラグビー選手としては幸いした。松島は2013年、U20南ア代表候補の合宿メンバーに選ばれたが、その招集には応じなかった。南ア代表として試合に出ると日本代表の資格を失う。「日本代表で強いチームに勝つためだった」という。
名手アル・ガイバーガーが1977年のメンフィス・クラシック2日目にコロニアルCCで史上初の59を出したときは、前人未踏の驚異的スコアに世界のゴルフ界が目を丸くした。そしてガイバーガーは「ミスター59」と呼ばれるようになった。
国歌をみんなで練習し、宮崎合宿では「君が代」に出てくる「さざれ石」を見学した。俳句も勉強した。宿舎や試合会場などのチームルームには、チームの象徴であるよろいの甲冑(かっちゅう)が運び込まれる。「日本の歴史を知れば、日本代表としての覚悟が変わるのです」。マイケルは前回の15年W杯でも、日本代表のキャプテンを務めた。
しかし、優勝会見でマキロイが語った喜びは「いくら稼いだか」とは別のところにあった。「ずっと考えていたことがあった。なぜ僕は肝心な最終日に負けてしまうのかということ。そういうメンタルの弱さを克服することが僕の何よりの課題だった」。既にメジャー4勝を挙げているトッププレーヤーの言葉としては意外に感じられるかもしれない。だが、過去の成績を振り返ってみると、マキロイが勝利に迫りながら最終日に崩れて負けた例は結構多い。
3度のラグビーワールドカップ(W杯)出場の実績、ユーモラスな大阪弁、涙を誘う献身的なプレー。ラグビー日本代表の最年長、38歳の「トモさん」ことトンプソンルークは、いつだって存在感に満ちている。ニュージーランド出身。2006年から近鉄でプレーしている。近鉄の本拠地が東大阪市・花園ラグビー場。ここに14年。練習にはママチャリで通い、ファンとの交流を大切にしている。花園ラグビー場を「わが家」と表現する。体を張るからだろうが、いつもあちらこちら傷だらけだ。
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