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モリカワの大ファンとおぼしき10代ぐらいの少女が、「はい、これ!」と言いながら、パターカバーを差し出したときのこと。モリカワはそのパターカバーにサインをしようとしたが、少女は首を横に振り、「これ、あなたに!」。 贈り物をされていることに気付いたモリカワは…
先日のBMW選手権の2日目には、松山英樹のスタート時に、こんなハプニングがあった。「今年の(全米)オープン覇者、ヒデキ・マツヤマ!」。そんなアナウンスが流れると、ティーグラウンド上で素振りしていた松山が「えっ?」と驚きの表情を見せた。そう、松山は今年の全米オープンではなく、マスターズの覇者。
不思議な「お祭り」が終わった。新型コロナウイルス禍による緊急事態宣言下の東京五輪が閉幕した。どこぞの総理がのたもうた「完全五輪」はほぼ無観客となり、「安全安心な大会」は掛け声倒れに終わった。さて、この東京五輪をひと言で形容するとしたら、ナニ五輪となるだろう。
1957年にはワールドカップの前身、カナダカップが霞ケ関CCで開かれ、世界各国から32人が参加。それは、当時としては画期的な出来事で「アジアで開催された世界初の重要な国際スポーツイベント」だったそうだ。私が興味深いなと思ったのは、そんな過去の歴史的な出来事を、欧米メディアがどう捉えていたかである。
「コースに来て、まずロッカールームに行った。僕のロッカーは窓辺にあった。その窓からは練習グリーンと海が一望できた。その美しい眺めを見た時、何か不思議な気持ちになり、何かいいことが起こりそうな予感がした」。それで、マキロイは乱れていた感情をうまくコントロールできるようになり、すっかり落ち着きを取り戻した。
ドイツのヴュルツブルク生まれのバッハ会長は67歳。父の早逝で自立心と責任感が培われたという。サッカー、フェンシングに打ち込み、1976年モントリオール五輪フェンシングで金メダルを獲得。勉学にも励み、弁護士資格、法学博士を取得した。アディダス社の国際マーケティング部長として活躍、国際スポーツ界に人脈を広げた。
24歳。確かに年齢だけを見れば、引退は早過ぎるとの印象を与えるかもしれない。でも、3歳で体操を始めたというから競技歴は20年余り。世界トップクラスに躍り出た高校2年の17歳からは7年。けがや不調の時期もあった。「自分の理想とする体操とは何か」を考え、時にはその重圧に押しつぶされそうになっただろう。
松山英樹がメジャー初制覇を成し遂げた「ゴルフの祭典」マスターズの開催地はジョージア州。同州は「ピーチ・ステート」と呼ばれるほどの桃が名産地とあって、マスターズの舞台であるオーガスタ・ナショナルでは、桃を使った「ピーチ・アイスクリーム・サンドイッチ」が長年、人気を博している。
5歳の時、福岡県下のラグビースクールに入り、福岡高校の時にはエースとして全国大会に出場した。大学の医学部を目指すも失敗、1浪のあと、筑波大に進学した。こんなエピソードがある。浪人中に膝のボルト除去の内視鏡手術を受けた時、下半身の麻酔だけにとどめ、モニターで自分の手術の様子を見ていたそうだ。研究熱心なのだ。
米ツアーのバルスパー選手権開幕前の月曜日、一般からの出場枠を競うマンデー予選が行われた。本戦出場がかなうのは、わずか4人。狭き門をくぐり抜ける戦いはプレーオフにもつれ込み、その2ホール目で6メートルのバーディーパットをガツンと沈めた大柄な選手が、キャディーと抱き合った瞬間、感極まり、その場で泣き始めた。
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