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ゼロ戦パイロット 平和への思い(3)

新造空母でガダルカナルへ

 ミッドウェー海戦を生き延びた原田さんは、駆逐艦巻雲から戦艦榛名に移乗し、他のパイロットともに内地へ戻った。ただ、原田さんらは呉や佐世保といった港で上陸することは許されず、鹿児島県の大隅半島にある笠ノ原飛行場に直接送られると、そこで外出禁止を申し渡された。その段階で、日本海軍が空母4隻を喪失したことは公表されていなかった。軍はミッドウェー海戦で大敗した情報が漏れることを恐れ、生存者を軟禁状態にして、ほとぼりを冷まそうと考えたようだった。

 「笠ノ原というのは、山の中にある秘密基地みたいなものでした。そこに集められていたのは、いろいろな船の生き残りで、最初のうちはお互い遠慮もあったのですが…」。軟禁されたパイロットたちは、空母4隻を一挙に失った事実と向き合わざるを得ない。気持ちもすさんできて、口論やケンカ騒ぎも起きるようになった。古参下士官だった原田さんは、仲間内のもめ事を仲裁したり、落ち込んだ気持ちになっている者を励ましたりしていた。

 軟禁生活は3カ月以上も続いたが、やがて朗報が届いた。「新しい空母が2隻完成したので、それに私たちが乗り組むことになったというのです」。2隻の新造空母は、いずれも建造途中だった日本郵船の大型客船を海軍が買収し、改造を施したもので、隼鷹、飛鷹と名付けられた。2隻は同型艦で、基準排水量2万4000トン、長さ210.3メートル、最大幅27.3メートルの飛行甲板を備え、最大58機の航空機(うち10機は予備機)を搭載することができた。原田さんが乗り組みを命じられたのは、飛鷹だった。

 日本海軍は南太平洋での米軍の攻勢を食い止めようと、ニューギニア東方に連なるソロモン諸島のガダルカナル島に飛行場の建設を始めた。この島に航空部隊を常駐させれば、米軍の拠点となっていたオーストラリアと米本土の補給路を分断できると考えたからだった。ミッドウェー海戦直後の1942(昭和17)年7月にガダルカナル島に送り込まれた海軍の飛行場設営隊は、海岸近くの原野を切り開き、滑走路の建設を進めていた。しかし、この動きをつかんでいた米軍は同年8月7日、海兵隊1個師団を上陸させると、完成間近だった飛行場を占領した。

 米軍は上陸後、直ちに飛行場の建設作業を再開すると、およそ2週間で完成させ、ヘンダーソン飛行場と名付けた。ガダルカナル島の戦略的な重要性は米軍も十分に認識しており、ここを足掛かりに南太平洋地域での反攻作戦を本格化させる考えだった。

 日本軍は同年8月18日以降、段階的に陸軍部隊をガダルカナル島に逆上陸させたが、米軍の兵力を過小評価していたこともあって、作戦はいずれも失敗した。そこで、新造の空母を中核にした機動部隊が投入されることになり、原田さんが乗り組んだ飛鷹は同年10月3日、僚艦の隼鷹とともに広島の呉を出撃すると、ガダルカナル島に向かった。

 出撃前、原田さんは飛鷹の飛行隊長だった兼子正大尉に呼ばれ、飛鷹飛行隊の先任パイロットを命じられた。「兼子さんからは、隊員たちが以前のような攻撃精神を取り戻すように指導せよと命じられました。ただ、(落ち込んでいた)隊員も行き先がガダルカナルだと知ると、(指導をしなくても)パイロットとしての(戦う)気持ちが戻ってきました」。原田さんは兼子大尉のもとに行き、「心配ありません。(どの隊員も)この戦いでは帰ってこられないと承知しています」と、誰もが決死の覚悟で作戦に臨んでいることを伝えた。

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