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ゼロ戦パイロット 平和への思い(2)

セイロン島攻撃で初の空中戦

 真珠湾攻撃の帰路、空母機動部隊のうち蒼龍と飛龍が戦艦2隻、駆逐艦2隻とともに別動隊となり、中部太平洋のウエーク島攻略作戦に参加した。蒼龍飛行隊はウエーク島を爆撃し、原田さんはこの攻撃部隊に加わることを許された。「真珠湾には連れて行ってもらえなかったので、この時は優先的に攻撃隊に入れてもらえたようです」ということだが、この作戦で原田さんは敵機と接触することがなかった。

 蒼龍は、1941(昭和16)年12月末にいったん広島県の呉に帰港したが、翌42(昭和17)年1月12日に再び出撃。パラオ諸島を経て、インドネシア中部スラウェシ島のスターリング港を拠点に陸軍のジャワ島攻略作戦を支援した後、3月26日にインド洋に向かった。

 日本海軍は開戦直後の41(昭和16)年12月10日、マレー半島沖で英海軍の戦艦プリンスオブウエールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈、太平洋地域の英国海軍戦力は壊滅状態に陥った。しかし、42(昭和17)年になると英国は欧州戦域から軍艦を引き抜いてインド洋に増派し、日本の進撃を食い止めようとしていた。インド洋の英軍拠点はセイロン島(現在のスリランカ)で、日本海軍は蒼龍を含む空母5隻からなる機動部隊を送り込み、英国艦隊の撃滅を狙った。

 42(昭和17)年4月5日、日本海軍機動部隊の空母5隻から九七式艦上攻撃機(九七艦攻)53機、九九式艦上爆撃機(九九艦爆)38機、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)36機が発進、セイロン島コロンボ港の空襲に向かった。蒼龍からは九七艦攻18機、ゼロ戦9機が攻撃に参加し、原田さんは戦闘機隊の第3小隊長として2機を引き連れていた。

 英国も日本海軍の機動部隊による攻撃を予測し、英空軍の主力機で欧州戦線で活躍していたホーカーハリケーン戦闘機の飛行隊をセイロン島に配置、原田さんらの攻撃部隊を迎え撃った。ただ、英軍の戦闘機部隊は、日本の艦攻、艦爆は攻撃しても、俊敏なゼロ戦とはまともに戦おうとしない。「英軍もゼロ戦の性能が良いことは十分に知っていて、空中戦をしようとはしないんです。高度差を生かして(急降下から日本機を)一撃すると、そのまま逃げていこうとします」。原田さんにとって、戦闘機を相手にした空中戦は初めてだっただけに、簡単に逃がすわけにはいかなかった。

 「ゼロ戦は破壊力の大きい20ミリ機関砲を2丁搭載していましたが、弾は60発ずつしか積めません。しかも、あまり遠くまで届かないという欠点もありました」。原田さんが搭乗していた零式艦上戦闘機二一型は、主翼の20ミリ機関砲のほか、機首に2丁の7.7ミリ機銃を搭載していた。7.7ミリ機銃の弾丸は遠くまで届くが、威力はいまひとつで、敵機を撃墜するには、20ミリ機関砲が届く距離まで近づく必要があった。

 「そこで、敵機を追いかけながら、わざと機体を狙わずに、進行方向の前方に向けて7.7ミリ(機銃)を撃ちました」。ゼロ戦の7.7ミリ機銃には、発火しながら飛んでいく曳光弾(えいこうだん)が混ぜてあり、機銃の射線が目で見えるようになっている。「敵機はそのまま進んだら(原田さんが撃った)弾に当たってしまいますから、方向を転換します。飛行機というのは、曲がると必ずスピードが落ちるのです。それを何回か繰り返せば、敵機との距離を詰めることができます」。

 原田さんは、100メートル以内まで近づければ、20ミリ機関砲を確実に命中させることができた。「100メートル以内というのは、敵機が照準器からはみ出して見えるほどの近さで、ほとんど狙う必要がないほどです。20ミリ(機関砲)は、機体(の中央)に命中すれば、主翼がもげてしまうほどの威力がありました」。この戦法は、誰かから教わったわけではなく、その場で思いついたものだという。原田さんは初の空中戦で、敵機5機を撃墜した。

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