佐伯基地を離れて数日後、「ある朝、起きて外を見ると、雪を頂いた山に囲まれた中に船がいました」。そこは、択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾だった。
「湾内には空母だけでも赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴と6隻、さらに戦艦、駆逐艦、油槽船、潜水艦までいて、日本海軍(の艦艇)が全部集まっているんじゃないかと思いました」。単冠湾に集まっていたのは、米太平洋艦隊の基地であるハワイの真珠湾を攻撃するための部隊で、空母6隻のほか、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦9隻、潜水艦3隻、燃料を運ぶ油槽船7隻で編制されていた。その段階で日米交渉は継続しており、開戦準備を堂々とすることはできない。攻撃部隊の艦艇はひそかに内地を離れ、1941(昭和16)年11月22日に択捉島単冠湾に集結していた。
翌23日、各艦の艦長や飛行長(空母航空隊の運用責任者)らが旗艦である空母赤城に集められ、攻撃目標を伝えられた。原田さんら蒼龍のパイロットにも、その日のうちに「攻撃目標はハワイ(真珠湾)にいる米空母、飛行場の航空機、(軍事)施設」という命令が伝達され、航空機搭乗員は、「いよいよ男としての働き場に行ける」と沸き立った。
空母機動部隊は11月26日朝、択捉島単冠湾を出航し、太平洋を東に向かった。数日後、蒼龍の艦内でハワイ攻撃部隊の編制表が発表された。蒼龍航空隊は、第1次攻撃に九七式艦上攻撃機(九七艦攻)18機、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)9機、第2次攻撃に九九式艦上爆撃機(九九艦爆)17機、ゼロ戦9機が出撃することになっていた。ところが、攻撃部隊の搭乗員名簿に原田さんの名前はなかった。
空母に搭載された戦闘機は、攻撃に参加するだけでなく、空母そのものを守る役割もある。攻撃部隊が発進した後、空母が米軍に攻撃される可能性も十分にあり、直衛(母艦を守る役目)戦闘機を何機かは残しておかなければならない。原田さんは、直衛戦闘機部隊の指揮官として残されたのだが、本人は納得できなかった。「どうしても攻撃部隊に参加したくて、(戦闘機隊の)隊長だった菅波さんのところへ直談判に行きました。蒼龍の戦闘機パイロットの中で、私は一番古手の下士官でしたし、実戦経験もある。それなのになぜ連れて行ってくれないんですか、と訴えましたが、だめでした」。隊長の菅波政治大尉は、「実戦経験があって腕もいいからこそ、母艦を守る役目を割り当てたのだ」と受け付けない。「軍隊は命令されれば従わなければなりません。でも、悔しかった」と、原田さんは泣く泣く攻撃部隊への参加を諦めた。
日本時間12月2日午後8時、北太平洋を航行中の空母機動部隊に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」という電文が日本から届いた。これは、12月8日にハワイ攻撃を実行せよという暗号だった。
攻撃当日、空母蒼龍から次々と攻撃部隊が発艦する中、原田さんの小隊は艦隊の上空で警戒に当たった。幸いにも日本艦隊が米軍に発見されることはなく、真珠湾の攻撃も完全な奇襲(相手の不意を突く攻撃)となり、大きな戦果を上げることができた。
ただ、最重要目標とされていた米空母の姿はなく、撃沈することはできなかった。「大戦果だとは言っても、沈めたのはボロの戦艦ばかり。何かだまされているのじゃないかという心配は、私たちのように残された人間にはありました。でも、攻撃に参加した人は、それぞれの目的をある程度は果たしているわけですから、すっかり勝ちにおごった気持ちになっています。真珠湾攻撃の戦果が大きく宣伝されてしまいましたので、国を挙げて戦勝気分になってしまいました。それも戦争の悲劇の一種でしょうね。正確な戦果、正確な経過を正しく報じる必要があったと思います」。
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