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ゼロ戦パイロット 平和への思い(1)

ゼロ戦との出会い

 大村航空隊は、パイロット育成を目的にした部隊で、原田さんは訓練生に操縦を教える教官として赴任した。「海軍では、パイロットを一般兵科からの募集、予科練の少年航空兵、兵学校を卒業した士官という3コースで育成していましたが、私は主に予科練出身者を教えていました」。この当時の海軍では、実戦を体験したパイロットはまだ少なく、教官として配置された原田さんは貴重な存在だった。その後も霞ケ浦航空隊、筑波航空隊、鹿児島航空隊、大分航空隊など、各地の教育部隊で後輩の指導に当たり、教官生活は1941(昭和16)年まで3年間続いた。

 「昭和16年の9月、大分航空隊で教官をしていた私は、空母蒼龍への乗り組みを命じられました」。原田さんが緒戦に参加した日中戦争は泥沼化し、日本に中国大陸からの完全撤退を求める米国との対立も深刻化していた。41(昭和16)年7月に日本が南部仏印(フランス領インドシナ)に進駐すると、米国は対日経済制裁を発動し、日米交渉は暗礁に乗り上げた。異動の発令時、蒼龍の戦闘機隊は同じ大分県の佐伯基地で訓練をしていたため、原田さんは佐伯に向かった。その際、大分の家は引き払い、その年の1月に結婚したばかりの夫人を郷里に帰した。「その頃は、米国との戦争は避けられないという切羽詰まった空気でした。私も含めて海軍のパイロットは皆、いつでも命を差し出して働こうという気持ちになっていました」。

 「佐伯の航空隊に着くと、ゼロ戦の二一型が30機ばかり、ずらりと並んでいました。(ゼロ戦を)操縦したのは、それが初めてでしたが、実に素晴らしい性能で、これならいつでもお国のために命をささげられる、(戦闘機乗りとして)最高の活躍ができると思いました」。ゼロ戦が初めて敵機と遭遇したのはこの年の9月13日で、中国に配属されていた第十二航空隊の13機が重慶上空で中国軍戦闘機27機と空中戦を展開、主翼に20ミリ機銃2丁、胴体機首に7.7ミリ機銃2丁という強力な武装を生かしてそのほとんどを撃墜しながら、自軍の損害ゼロという華々しい戦果を上げた。第十二航空隊はかつて原田さんが所属していた部隊。パネー号事件で内地に送還される不運がなければ、原田さんもゼロ戦の初陣に参加していたかもしれない。

 「海軍全体が、この飛行機ならどこの国の戦闘機と戦っても負けないという自信を持ちました。ただ、その自信が過剰だったように思います」。この当時、確かにゼロ戦は世界最高の戦闘機ではあったが、戦争になれば相手方も必死で対抗策を探る。「アメリカは不時着したゼロ戦を(捕獲・修理して)飛ばし、その性能を研究しました。その結果、グラマンF6Fヘルキャットのようなゼロ戦に対抗できる戦闘機ができるわけですが、逆に日本は新しい改良型の戦闘機がなかなかできませんでした」。

 佐伯基地でおよそ2カ月の訓練を行った後、回航された蒼龍の飛行甲板にゼロ戦で着艦した。「驚いたことに、空母の内部は既に臨戦態勢でした。艦内の重要な場所にはハンモックを巻きつけてあって、攻撃された時の防弾対策が施されています。こりゃあ、いよいよ(戦争が)始まるぞ、と思っていたら、いつの間にか船は出航して、北の方に向かっていました」。この時点で、戦闘機パイロットに行き先や目的は告げられておらず、「北に向かっているということは、(ソ連の)ウラジオストク辺りを攻撃するんじゃないんか、なんて声もあった」という。

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