会員限定記事会員限定記事

ゼロ戦パイロット 平和への思い(1)

パネー号事件で内地送還

 1937(昭和12)年7月に盧溝橋で発生した日中の軍事衝突は中国南部へも波及し、上海では8月13日、日本人居留民を保護するために派遣されていた海軍陸戦隊が現地の中国軍と交戦状態に入った。これが第2次上海事変と呼ばれる戦闘で、盧溝橋事件では戦火の不拡大方針を取っていた日本政府は、上海での戦闘を機会に態度を一変させ、近衛内閣は中国軍の「暴戻(ぼうれい)を庸懲(ようちょう)」するという事実上の宣戦布告といえる声明を発表した。中国側も激しく抵抗したため、日本は陸軍の増援部隊を続々と上海に派遣。「事変」はあっという間に拡大し、本格的な日中戦争に発展した。

 原田さんが所属する第十二海軍航空隊は、37(昭和12)年7月に佐伯航空隊を基幹に編成され、9月に上海の公大飛行場に進出。ここを拠点に陸軍部隊の進撃を空から支援することになった。中国軍の戦闘機部隊は、大陸の奥地へ撤退しており、上海入りした原田さんは航空機同士の空中戦を体験することはなかった。

 11月5日に日本陸軍の3個師団が杭州湾に上陸して上海の背後を突き、中国軍は南京に向かって敗走を始めた。「杭州湾に上陸した陸軍の部隊が南京に向かって進撃すると、中国軍も激しく抵抗します。そうすると私たち(航空機部隊)が行って、(中国軍の拠点を)銃撃したり、爆撃したりして(地上部隊を)援護するわけです」。その頃、十二空が装備していたのは複葉の九五式艦上戦闘機で、機首に2丁の7.7ミリ機銃を装備していたほか、両翼の下に60キロ爆弾を1発ずつ搭載することができた。

 12月に入ると、日本軍地上部隊は南京に到達し、原田さんの部隊も航空支援に駆り出された。ところが、12月12日、南京から揚子江を使って奥地の重慶へ脱出しようとしていた中国軍の艦船攻撃を命じられた原田さんの部隊が、中立国である米国の砲艦パネー号を誤爆するという事件が起きてしまった。「米国側は国旗を掲げていたと主張していますが、(パネー号は)たくさんの船の中にまぎれていて、(上空から)区別することはできませんでした。それでも戦争の当事国ではない国の船を沈めたのは事実です」。日本政府は、すぐさま米国に謝罪し、賠償金を支払うことになった。

 パネー号を爆撃した海軍部隊にも処分が下され、中国派遣部隊の最高指揮官だった三竝貞三中将は更迭され、十二空が所属していた第二連合航空隊の司令官と主席参謀、2人の航空隊司令、4人の飛行隊指揮官が戒告処分を受けた。その波は戦闘に参加したパイロットにも及び、公式な処分という形は取られなかったものの、原田さんのほか数人の下士官が内地(国内)に転属させられた。

 パネー号の攻撃には多くの海軍機が参加していたが、最前線で戦っている部隊のパイロット全員を転属させることはできない。そこで、代表として何人かを選抜したらしいが、選んだ基準は明らかにされなかった。原田さん本人は「操練を主席で卒業したとか、目立つ部分があったからではないでしょうか」と述懐する。戦地での生活は数カ月で終わり、38(昭和13)年1月、長崎県の大村海軍航空隊に着任した。

新着

会員限定

ページの先頭へ
時事通信の商品・サービス ラインナップ