ゼロ戦パイロット 平和への思い(1)

パイロットに向いた体質

 操縦練習生の第一の関門は、身体的な適性を調べる数々のテストだった。「今の宇宙飛行士も似たようなことをすると思いますが、体をぐるぐると回転させてから歩かせたり、肺活量を調べたり、部屋の気圧を下げて高高度と同じ状態にして、頭の働きが落ちないかとか、そういう検査を約1カ月もされました」。飛行中のパイロットに与えられる負荷を再現し、その対応力を探る身体テストだが、原田さんはそのいずれでも抜群の適性を示した。

 特に、高高度の薄い空気への順応性が高く、「普通の人は(高度)5000メートルを超えると酸素を吸わないといられないのに、私はなぜか6000メートル(と同じ気圧の中)でも平気でした」。

 検査では、気圧を低くした密室に入れられ、立て続けに質問を浴びせて判断力がどの程度まで鈍るかを調べられた。「私の場合、(どんな状況でも)『これだ』と思うと、迷いなく決断することができました。戦闘機のパイロットには、それが一番大事なのです」。この強い決断力が、後の実戦で原田さんの命を救うことになる。

 適性テストの段階で、150人いた同期生のうち50人程度が脱落し、残った100人が8カ月の飛行訓練過程に進んだ。飛行訓練は、まず初歩練習機で操縦の基本を学び、次に中間練習機と呼ばれる機体で少し難しい飛行技術を習得、さらに実用機でのトレーニングが行われる。ただし、この訓練期間中にも、適性に欠けると判断された訓練生は容赦なくふるい落とされる。訓練が終わった8カ月後、残った同期生はわずか26人と、4分の1にまで減っていた。原田さんはその中でも優秀な成績を収め、1937(昭和12)年2月に第35期操縦練習生の首席として卒業、恩賜の時計を授けられた。

 「操縦練習生は、卒業前に戦闘機、2人乗りの艦爆(艦上爆撃機)、3人乗りの艦攻(艦上攻撃機)に分けられて、それぞれ(専門的技能を学ぶ)延長教育を受けることになります。私は幸いにも、希望が通って戦闘機(パイロットのコース)に進むことができました」。当時、戦闘機パイロットの延長教育は大分県の佐伯航空隊で行われることになっていたため、原田さんは佐伯航空隊に転属となった。

 延長教育では、複葉の九〇式艦上戦闘機で実戦を想定した厳しい訓練を受けた。従来、延長教育は1年から1年半は受けなければならなかったが、原田さんはわずか8カ月で終了になった。「当時は、延長教育で500時間飛べば実戦部隊に出てもいいということになっていたらしいですが、私たちは300時間くらい訓練を受けたところで、十二空(第十二海軍航空隊)に配属され、中国の上海に向かいました」。原田さんが上海行きを命じられたのは37(昭和12)年10月。その年の7月7日、北京郊外で起きた盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まっていた。訓練が短縮されたのは、中国での戦況が差し迫り、できるだけ多くの航空機を派遣したいという軍の事情も背景にあったようだ。

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