長野市に住む原田要さんは、1916(大正5)年8月11日生まれ。県立長野中学(現在の長野高校)を中退して33(昭和8)年に海軍へ入り、37(昭和12)年に戦闘機のパイロットになる。太平洋戦争が始まると、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に搭乗し、真珠湾攻撃、インド洋作戦、ミッドウェー海戦に参加、ガダルカナル攻防戦で乗機が被弾し、自らも重傷を負いながら生還したという経験を持つ。戦後は幼児教育に身を投じ、子どもたちの笑顔を見ることが何よりの喜びという生活を送ってきた。戦時中のさまざまな経験から、子どもたちに平和の尊さを説き、他人への思いやりを持つことの大切さを教えている。戦後70年の節目である2015年春、飛行時間およそ8000時間の歴戦パイロットに、実戦の体験と平和への思いを聞いた。
◇親に無断で操縦練習生に
原田さんが飛行機を初めて目にしたのは、4歳か5歳の頃だったという。「大正9年か10年のどちらかだと思いますが、長野市内を流れる信濃川の河川敷に飛行機が飛来するという話が伝わってきました。場所は自宅から8キロも離れていましたので、祖父に連れられて、それを見に行ったのです」。
初めて見る飛行機は、まるで鳥のように大空を舞い、幼い心に「いつか自分も空を飛びたい」という思いを残した。名門・長野中学に入学しながら3年で退学し(当時の中学校は5年制)、33(昭和8)年に海軍へ入隊する。当初は駆逐艦の乗組員だったが、やがて飛行機に搭載する兵器を整備する「航空兵器術」の担当を志願したのも、「空を飛びたい」という思いに駆られてのことだった。
航空機を操縦するパイロットではなく整備兵を目指したのは、父親の意見に従ったからだった。「当時の海軍では、操縦練習生(パイロットになるための訓練生)になるには、親の承諾書が必要でした。ところが、私の父親は『飛行機は危ない』と言って、どうしても承諾書を書いてくれないのです」。航空兵器の整備担当ならパイロットではなくても飛行機のそばにいられる。そこで親の承諾書が必要ない「航空兵器術練習生」の試験を受験したところ、見事に合格。半年間の訓練の後、35(昭和10)年11月に整備兵として航空母艦の鳳翔へ乗り組みを命じられた。
ただ、空母に乗り組んでも整備兵の仕事はあくまで機体と兵器の整備で、大空を飛べるわけではない。思い悩んだ末、親には無断で承諾書を自ら書いて提出し、操縦練習生の試験を受けた。受験者は海軍全体からおよそ1500人もいたが、実際に訓練を受けることができるのはその一部でしかない。しかし、その難関を見事に突破し、36(昭和11)年6月、茨城県にある霞ケ浦海軍航空隊の飛行学校に練習生として入隊することが許された。
「霞ケ浦に着くと、(海軍の)各部隊から集まった同期生が150人もいます。この全員が本当にパイロットになれるのかと不安になりました」。教官の一人に聞いてみると、「何を言ってるんだ。このうち1割がパイロットになれればいい方だ」と笑われてしまった。練習生はあくまでパイロットの候補者でしかなく、適性検査と厳しい訓練の中で、多くの練習生は脱落して原隊に返される仕組みだったのだ。
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