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◆コラム◆相撲の面白さと「礼」
 横審委員の眼

ガッツポーズがなくなった

大相撲名古屋場所11日目、豪栄道の浴びせ倒しに敗れた白鵬(手前)=2014年7月23日、愛知県体育館【時事通信社】

 第二は、土俵上でガッツポーズを見なくなったことである。

 勝者もはしゃぐことなく、敗者も悪びれず、淡々と礼を交わす姿には、本物の武道らしい「礼」の精神が生きている。観衆はその節度ある行動に感動を覚え、同時に力士の心中をも察しながら、拍手を惜しまないのである。敗者への配慮に欠けた行為は、人目を引くための自己顕示にすぎず、決して武道とは言えない。ましてや国技の名には値しない。かつてはそういう見苦しい光景をしばしば目にしたが、今はほとんど消えている。好ましい進歩である。

 その点で心に残ったのは、豪栄道が正攻法で白鵬を破った11日目の一戦である。本人が「今までで一番」と述べるほど、力士人生最高の相撲を取ったわけだが、闘いの後の挙措にけれん味は全くなく、全力を出し切ったすがすがしさがあった。

 古い話であるが、1992年のバルセロナ・オリンピックで、古賀稔彦選手が柔道71kg級の金メダルを取った時を思い出す。勝った瞬間にガッツポーズを見せたので、帰国した当人にその時の心境を尋ねた。私は彼が修行した講道学舎の役員をしていた関係で、そうした行動の似つかわしくない、礼節ある青年と知っていたからである。答はおおむね次のとおりであった。「無我夢中でした。けがを抱えながら、やっと悲願の金メダルを取った瞬間に、思いが一気に爆発したとしか言えません。見苦しかったと思います」と。引退後の彼は後進の育成を続け、スポーツ医学の分野で研究を深め、2012年には弘前大学から博士号を授与されている。

 子供たちへの模範となって

 「礼に始まり、礼に終わる」のは、武道の根本精神である。相撲道が長い伝統の中で培ってきた「礼の型」は、わが国が世界に誇り得る貴重な文化遺産であり、後世にそのまま継承していく必要がある。個性の名のもとに「型」を軽視しがちな現代であるだけに、なおさら価値が大きいのである。

 「美しい礼」を求めて、力士にはさらに一層の精進を望みたい。一例を挙げれば、土俵に出入りする際の花道での「礼」、土俵上で勝負の前後に相手と交わす「礼」である。現状は力士によってまちまちで、軽く顎を引くだけの者もあれば、深々と頭を下げる者もある。お辞儀の仕方にはある程度の個人差があっても良いのだが、敬意が見て取れないようでは、本物の「礼」とは言えないであろう。

 力士には、子供たちの模範となって欲しい。親が子や孫に向かって、お辞儀はああいう風にするんだよ、と教えたくなるような「礼」である。観衆は細かい技術面では素人だが、力士の挙措、動作を見る目は鋭い。子供たちの目は、大人以上に曇りがないのである。

 地方巡業などで、赤子をお相撲さんに抱いてもらおうと差し出す親の気持ちには、「気は優しくて、力持ち」、強くて礼節ある力士への憧れがこめられている。他の競技では見ることのできない、相撲ならではの光景である。そうした素朴な期待に応えることが、単なる格闘技ではなく、国技、神事として、相撲が発展する道筋ではないかと思う。

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