◇東西のせめぎ合い続く東欧
1914年6月28日、東欧バルカン半島の一角、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボで凶弾が放たれた。オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア人民族主義者に暗殺されたのだ。この事件を引き金に、1カ月後の7月28日、第1次世界大戦が勃発した。人類が初めて経験する地球規模の国家総力戦だった。
サラエボ事件から100年。第1次、第2次大戦の発火点となり冷戦終結後も凄惨(せいさん)な民族紛争の舞台となった東欧が、今なお不安定な地域であることは、ウクライナ危機によって再び示された。東西のパワーがせめぎ合う東欧の地政学的宿命は消えていない。
◇「火薬庫」の危険度
第1次大戦前夜、「火薬庫」と呼ばれたバルカン地域は20世紀末も、なお危険地帯として残されていた。
90年代末、セルビア部隊とアルバニア人武装勢力が激しく衝突したコソボの民族紛争は、北大西洋条約機構(NATO)軍の対ユーゴスラビア空爆にまでエスカレートした。セルビア民族主義をあおり続けた当時のミロシェビッチ政権はついに屈服し、NATO軍のコソボ進駐が決まった。ところがその直前、セルビアの友邦であるロシア部隊が機先を制してコソボへ電撃的に進出、NATO軍に挑戦する姿勢を示した。
「NATO軍とロシア軍は武力衝突するのか」。当時、そんな悪夢のシナリオすらささやかれた。ロシアはコソボにおける軍事的足場を確保するため、自国の「管理区域」を設けるよう要求。民族間の確執に東西のパワーゲームが絡むバルカンの危険度を浮き彫りにした場面だった。
◇攻防、ウクライナ舞台に
その後、バルカン地域ではセルビアやコソボも欧州連合(EU)加盟を目指すようになった。EUに加盟したクロアチアをはじめ、解体した旧ユーゴの構成国が欧州の勢力圏に入ることで、バルカンには一定の「安定装置」が取り付けられた。
だが、勢力圏をめぐる欧米とロシアの綱引きは現在、ウクライナに舞台を移し、「火薬庫」は東進した形になっている。東欧の歴史は、ゲルマン系とスラブ系の闘争の連続だったが、ウクライナをめぐるメルケル独首相とプーチン・ロシア大統領との「外交戦」にも、その一端を垣間見ることができる。
◇新興国の挑戦歴史は新興国が既存の秩序に挑戦するとき、戦争が起きやすいと教える。19世紀後半、宰相ビスマルクによって強力な統一国家となったドイツ帝国は、皇帝ウィルヘルム2世の時代になると「ドイツの未来は海にあり」と叫んで強大な艦隊建設に乗り出し、大英帝国の海洋覇権打破をもくろんだ。さらに、ベルリンからイスタンブール、バグダッドに至る鉄道を建設する「3B政策」によって英国とロシアの帝国主義政策と真っ向からぶつかり、大戦勃発の一因となった。
◇現在の中国、帝政ドイツに重なる
そうしたドイツ帝国の姿は、強圧的に海洋進出を図る今の中国と重なる。
第1次大戦前の欧州同様、今の東アジアには戦争予防のための強力なメカニズムが存在せず、偶発的事件が戦争の導火線となる恐れがある。
「日中首脳間のホットライン設置などの手だてが早急に必要だ」。在京欧州外交筋は懸念をあらわにした。
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