―五輪での金メダルは選手にとって非常に大きなこと。現役時代にはどう影響したか。
よく言われるのは一つのゴールであり、スタートということ。選手にとって金メダルは究極の目標であり到達点。あの頃はプロという選択肢もなく、「上がり」という感じでモチベーションが浮かばなくなってしまった。「燃え尽き」ですかね。大学4年で区切りも良かった。一生のうちにこれだけ練習するのはソウルまでだ、と思いながらやってきた。結果がどうあれ、どんな順位でも自分の実力だと受け入れるつもりだった。
―ソウル五輪の後、約1年間競技生活を休んだのもそういう気持ちがあったからか。
選手をやっていたときはできなかったことをしようと思ったけど、卒業も危なかったので実習と勉強ばかり。プロならばやればやるほど、収入も上がって別のモチベーションが湧くと思うけど、当時の僕は第二の人生を早く切らなくては、食べていかないといけない、と思っていた。水泳をやっていても食えないわけだから、寂しい時代でしたよ。
―バルセロナ五輪で連覇を成し遂げようという気持ちは湧いてこなかったのか。
当時は「連覇して何になるの?」「早く第二の人生をスタートしなきゃ」という気持ちが大きかった。大学(順大)を選んだのも大学の教員になろうと思っていたからだし、大学院に入るために勉強もしなくてはいけなかった。そちらの方がプライオリティは高かった。
ソウルが終わって卒業直前の2月に教育実習に行った時、生徒が何百円かを出し合ってプレゼントをくれた。包みを開けたらバスタオル。裏に刺繍がしてあって、「バルセロナでもう一度」と書いてあった。自分の生徒がそう言うならやらなきゃいけないなとは少し思ったけれども。その時、生徒にいたのが(お笑いコンビの)ペナルティのワッキー。この前、イベントで一緒になってそんな話をして。「プレゼントの発起人は僕なんですよ」って言われた。
―五輪を初めて目指した当時を振り返ると、鈴木陽二コーチから「五輪に行けるぞ」という一言をもらったことが大きかったという。
そう。普通の練習サボり気味の高校生スイマーが、一念発起して五輪に行くぞと思い始めてから本番まで1年もなかった。(高校2年の)10月か11月にコーチに言われてから頑張り始めて、翌年6月の選考会で勝ってロサンゼルス五輪に行った。人生の激変期だった。鈴木コーチに「お前、五輪に行けるぞ」と言われなかったら、今の自分はない。あの一言は大きかった。あの1年の激変に比べたら、(ソウル五輪の時に)世界ランキング3番から翌年五輪金をとるなんて、たやすいことだったと思う。
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