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「負けない」と臨んだソウル五輪 スポーツ庁・鈴木大地長官【東京五輪インタビュー】

自ら決断したバサロ

 1988年ソウル五輪で競泳男子100メートル背泳ぎを制した鈴木大地氏。32年がたち、スポーツ庁長官として2020年東京五輪・パラリンピックを迎える。スタートから潜行して進む「バサロ泳法」で日本中の注目を集めた金メダリストに、五輪に寄せる思いを聞いた。(聞き手 運動部・飯塚大輔)

 ―1984年ロサンゼルス五輪に高校3年で出場した経験を踏まえ、長期計画で4年後の頂点を狙ったという。ソウル五輪の代表になったときの心境は。

 僕も五輪の代表には2回しかなっていないので、やはりうれしい気持ちだった。五輪で負けても死なないけど、代表に選ばれないと話にならない。選考会は失敗できない独特の雰囲気があった。

 ―ソウル五輪決勝、印象的なバサロスタートは50メートルプールの半分以上続いた。予選でデビッド・バーコフ(米国)に1秒以上のタイム差をつけられて、バサロの距離を伸ばす決心をしたと聞く。実際はどうだったのか。

 僕はいつも予選では思い切り泳がなかった。ソウルでもこんなところかな、というのはあったけど、バーコフが速かった。決勝で勝つためには作戦を変えないといけなかった。

 ―バサロキックの回数は21回だったのが、決勝では27回。キックを増やす想定もして、練習を積んでいたのか。

 練習では1、2カ月前からフィンを付けて、平気で50メートルをやっていた。距離に対して不安はなかったけど、今と違ってターンの時には壁に手をついてから方向転換するルールだった。右手をつくのか、左手をつくのか。自分は21回だと左手でターンしていたが、回数を多くすると右手でタッチしないといけないかもという不安があった。最後は自分で決断した。

◇磨いたタッチの差で頂点

 ―バサロが語り草になっているが、実際のレースは後半の競り合いを制したことが一番大きかった。

 その通り。ロサンゼルス五輪の時は僕しか(バサロを)やっていなかった。ずっと自分のスタイルでやってきて、遅い時は誰もまねしてくれないけど、記録が伸びてくるとみんながまねするようになってきた。

 ソウル五輪の前年、パンパシフィック選手権の時にカナダのマーク・テュークスバリー(1992年バルセロナ五輪男子100メートル背泳ぎ金メダリスト)とショーン・マーフィーがバサロキックを教えてくれと言ってきたので、「いいよ」と見せてあげた。得意技をライバルに教えるのはどういうことか、と思うかもしれないけど、今からやっても自分に勝てるわけがないと思っていた。僕はその時、後半のスタミナをどうつけるのか、最後のタッチをどうするのか、という練習を始めていた。彼らより先を行っていた。だからむしろ自分の得意なフィールドに外国人選手を引っ張り込んだ、そこでなら僕は負けないと思った。

 ―決勝はまさにタッチの差がものをいい、頂点に立った。

 優勝したいとは思っていたけど、最後は泳ぎながら(勝負は)どうでもいいやと思っていた。「気持ち良く悔いなく泳ごう」という気持ち。ラスト25メートルはあまり隣を見ないで、勝負よりも自分の力を出し切ろうとした。そういう気持ちになったのはあの時だけだった。

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