その本塁打は滞空時間が長く、虹のようにきれいなアーチを描いた。今年1月に野球殿堂入りした田淵幸一さん(73)。野球界の発展に大きく貢献した人を永久にたたえる野球殿堂表彰者の競技者表彰エキスパート部門で選ばれた。プロ野球で歴代11位の通算474本塁打。法大時代は神宮のスター選手、プロでは阪神と西武で活躍し、「天性のアーチスト」と称賛された。(時事通信運動部 石川悟)
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◇ひょんなことから捕手
中学で野球を始めた田淵さんは、東京・法政一高(現法政高)で本格的に野球に取り組んだ。入学当初、1年生部員は外野フェンス沿いに並び、先輩たちの打撃練習で飛んでくる球を拾うばかり。軟式球だった中学時代と違い、高校の硬式球に早く慣れたかったが、そのままではかないそうにない。すると、練習風景を見ていて、あることを思いついた。
「打撃練習の時に捕手をやろう」。打者の後に座り、見送りや空振り球を捕るだけ。捕手の防具はチーム共有で古びているため、着けることを嫌う選手が多かったというが、そのポジションを得れば早く硬式球に触れられると思った。松永怜一監督に直訴すると、その心意気を買われ、「捕手・田淵」が誕生した。
◇神宮は田淵フィーバー
高校では甲子園出場を果たせず、1965年に法大に進学。法政一高時代のプレーを見ていた松永監督が大学でも指揮を執ったことが幸いし、1年生から東京六大学の春季リーグ戦で試合に出場した。大学の野球が水に合ったのか、長打力が開花。その年の秋季リーグ戦終了までに4本塁打を放ち、高校では無名だった選手が一躍、脚光を浴びた。長嶋茂雄(立大)=後に巨人=と広野功(慶大)=後に中日、西鉄、巨人=が持つ通算8本塁打のリーグ記録更新を狙う逸材を見ようと、神宮球場は連日「田淵フィーバー」で沸いた。
同学年のチームメートにも恵まれた。自身を含め「法大3羽ガラス」と言われた山本浩司(後に浩二)選手、富田勝選手と切磋琢磨(せっさたくま)して、順調に本塁打数を伸ばした。4年間で通算22本塁打。リーグ記録を大幅に塗り替え、97年に高橋由伸(慶大)=後に巨人=が23本で更新するまで、30年近くも記録保持者となった。
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