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コラム:パラリンピックの記憶から
 スポーツ千夜一夜

「強化」とは環境整備

 リオデジャネイロ・パラリンピックの最中にも、ヤングさんの危惧が現れたような出来事があった。車いすの女性陸上選手であるマリーケ・フェルフールト(37)=ベルギー=に関する報道だ。筋力が衰える進行性の脊髄の病気にかかっている同選手は、苦痛に耐えられなくなった時に安楽死の処置を取ってもらうための書類を2008年に準備しているが、そのことでベルギーのメディアに「リオ大会の後に安楽死するかもしれない」と報じられたのだという。彼女は記者会見を開き、それは誤報だと否定した。

 14歳で発症してから病との闘いが続き、痛みや発作で眠れないこともあるそうだ。しかし、400メートルで銀メダルを獲得した同選手は、「私はまだどんな小さなことでも楽しんでいる。いいことより悪いことが多くなったら安楽死というものもあるけれど、今はその時ではない」と言った。誤報が取材者の単純な思い込みによるものなのかどうかは分からないが、読者の関心をひきたいメディアが陥りがちな過ちを犯した可能性もある。

 彼女にとって競技に打ち込むことは、文字通り生きる力にもなっている。その事実を思えば、選手を育てる意味で使われる「強化」という言葉は、国がメダル数の目標に絡めて声高に叫ぶものではなく、「強くなりたい」という選手の思いをかなえる環境の整備であることが分かる。さらに言えば、それ以前に障害者を含めて誰もが気軽にスポーツを楽しみ、心身の健康に役立てられる環境を整えなければ何も始まらない。そうした社会をつくることを目指しますよ、という国の意気込みや、スポーツ愛好者の裾野の広がりの象徴が、五輪やパラリンピック選手の活躍であるべきだと思う。

 フェルフールトさんの話を伝え聞いた時、「あした終末の日が来るとしても、私はきょう、リンゴの木を植える」という古人の言葉を思い出した。流した汗は報われないかもしれないけれど、それでも歩みを止めるわけにはいかない。オリンピアンであれパラリンピアンであれ、そのどちらでもない平凡な私たちにとっても、それは同じことなのだ。

 (時事通信社運動部デスク 冨田 政裕)

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