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コラム:そこに未知があるなら (2016/6/16)
 スポーツ千夜一夜

山に向かう理由

 「山登りって何が楽しいの?」。そう聞かれるたびに 「まあ、景色がね…」などと適当に答えていたが、登りたくなる根っこの理由が何となく自分なりに分かったような出来事があった。

 きっかけはFMの音楽番組で耳にした女性歌手の歌だった。深遠な響きの歌が妙に心に染み、もう一度聴きたくてインターネットで調べて輸入盤のCDを購入。予感的中というべきか、このアルバムはどの曲を聴いても頭の中が静かに澄み渡っていく。このところ毎晩聴いていて、寝つきの悪い私が最初の数曲で眠りに落ちるほどなのである。

 この歌手が折しも初来日中だったと知り、ライブハウスにも足を運んだ。彼女はスザンヌ・アビュールというスイスのジャズ歌手で、自己紹介の中で「自然界からインスピレーションを得て曲を作っている」と話していた。それを聞いて、はっと気付いた。ピアノとクラリネット、ブラシを多用したドラムスだけで奏でる彼女の歌を聴くたびに覚える感慨は、やはり以前どこかで味わっている…。それは何だったかと考えるうちに、いくつかのシーンが記憶の中から浮かび上がった。

 秋の奥秩父で、寒さと月明かりに目が覚めたテントの夜。北八ヶ岳の雪の森で見た月。夏の中央アルプスの稜線で雨にぬれた午後―。いずれの風景も、彼女の歌がどこかから聞こえてきそうな空気があった。濃密な自然の中では、風や雨に対して独特の安ど感や興奮を覚えるのかもしれない。山野で暮らしていた遠い昔、人間の遺伝子に染み込んだ記憶。これを懐かしむために、山に向かうのではないかと思うようになった。

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