御巣鷹の真実~日航ジャンボ機墜落事故~

すべての始まり

 深刻な経営不振に陥った日本航空が会社更生法の適用を受け、実質的に国の管理下で再建を目指すことになった。再建の柱となるのは社員1万5000人削減など大幅なリストラだ。今年は、乗客乗員520人が犠牲となったジャンボ機墜落事故から25年。「御巣鷹の尾根」の悲劇は日航の安全対策の原点であり、再建策の中でも「安全」は第一に置かれるべき課題だ。リストラとコスト削減で、機体整備や乗務員訓練などの安全対策が手薄になれば利用者の信頼を回復することはできないだろう。

 ジャンボ機墜落をすべての報道機関に先駆けて報じたのは時事通信だった。1985年8月12日午後7時13分、「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」の衝撃的なフラッシュ。このフラッシュから、各報道機関の壮絶な取材が開始された。「御巣鷹の尾根」で何が起きたのか。羽田空港や墜落現場で取材に当たった記者、カメラマンが25年前の真実を語った。(2010/02/08)

 本文中の登場人物の年齢は当時のものです。

 午後6時40分ごろだった。羽田空港ビルの4階で全日空の担当者と会っていた社会部羽田担当・清水喜由(35)のポケットベルが3回鳴った。札幌支社時代から航空専門記者を目指し、ネットワークを作ってきた清水は、羽田でも空港関係者との間で何かトラブルがあったら知らせてもらう約束をしていた。ポケットベル3回はその符丁だった。それは1985年8月12日。ポケベルの合図は、前例のない悲劇の始まりを知らせていた。

 「トラブルだろうか」。清水は全日空の担当者と別れ、すぐに記者室に戻った。そこに他社の記者の姿がないことを確認すると、その場から親しくしている管制官に電話を入れた。「日航123便がフラフラしている。羽田に帰ると言っている」。レーダー室も「確かにこちらに戻りそうだ」と言う。

 「エアターンバックかな。長野方面から東京に戻るルートがあったはずだ。それに乗って羽田に戻るのだろうか」。清水はビル2階の航務課(当時)に下りてみたが、「分からない」という。航務課はいざという時、「救難調整本部」(RCC)となるセクションだが、課内は静かであわてた様子もない。

 しかし、午後6時59分、衝撃的な情報で状況は一変した。「123便がレーダーから消えた」。清水は親しい課員に頼み込み、123便の行き先である大阪空港の管制部に電話をかけてもらったが、着いていない。東京航空交通管制部にも聞いたが、「レーダー上には写っていない」という。

 清水は「大変な事故になっている」と確信し、午後7時9分ごろ、航務課に来ていた空港長に「今からフラッシュを打ちます。ニュースが出ます」と通告。急いで電話がある記者室に戻った。

 午後7時11分ごろ社会部に連絡。緊張を押し殺し、努めてゆっくりと「フラッシュをお願いします」と伝えた。歴史的な一報を受けたのは、担当の時間を終えて帰りかけていたデスクの天野岩男(41)だった。異常事態の発生をつかみ、空港ビル内を走り回って取材していた清水の息づかいは荒く、受話器からもそれははっきり聞き取れた。

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