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【特集】五輪 あのとき

誤算だった「主将」不在

◇サッカー男子「谷間の世代」 2004年アテネ

 2004年アテネ五輪でサッカー男子日本を率いた山本昌邦監督は、野心に満ちたスローガンで「谷間の世代」と呼ばれた若者を鼓舞した。「アテネ経由ドイツ行き―」。五輪での経験をA代表に持ち込み、2年後のワールドカップ(W杯)ドイツ大会でピッチに立つというもくろみは、パラグアイとイタリアに連敗し、1次リーグ最終戦を待たずに散った。

 3―4で敗れた初戦翌日。那須大亮が頭を丸刈りにして練習会場に現れた。前日、浮き足立つように開始早々の失点を含む前半の3失点にミスで絡んだ。主将を任されながら、45分で交代を命じられた。

 「心機一転」。強い責任感が宿舎での「みそぎ」となったが、第2戦以降は控えに落ちた。無情ではあったが、精神的な柱にと期待した存在が、大舞台の雰囲気にのまれるとは指揮官にとっても想定外だった。

 チームには五輪アジア最終予選までは、闘争心にあふれ、信望が厚いキャプテンがいた。鈴木啓太。だが、本番の18人のメンバーに「主将」の名前はなかった。指揮官は24歳以上のオーバーエージ枠で小野伸二を選び、ボランチのポジションで重なる鈴木を外した。負ける要素は一つではないが、この決断は裏目となった。

 監督が欧州でも実績十分の小野に頼ったのは理解できたものの、合流が大会直前で真の意味でチームの一員になるのは難しかった。「全てにおいて疲れた」と小野は振り返った。チームは達成感を得ることなく失意の帰国。2年後、アテネ世代でドイツ行きの切符をつかんだのも2人だけだった。

 物語には続きがあった。鈴木はオシム・ジャパンの「心臓」となり、松井大輔、大久保嘉人、阿部勇樹、田中マルクス闘莉王らは10年W杯南アフリカ大会で日本の16強入りに貢献した。前後の世代と比較して実績が見劣るため「谷間」と言われた彼らだったが、アテネでの苦い経験を無駄にせず、花を咲かせた。(2020.5.17)

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