◇打倒山本から世界へ 2004年アテネ
五輪3連覇への道は、悔し涙から始まった。2001年12月、レスリング全日本選手権の女子56キロ級準決勝。19歳の吉田沙保里は、世界女王で21歳の山本聖子に惜敗した。
その年、女子種目が04年アテネ五輪で初採用されることが決定。進境著しい吉田は、山本と同じ55キロ級(旧56キロ級)だ。「何としても聖子ちゃんに勝つ」と挑戦状をたたきつけ、02年の釜山アジア大会と世界選手権の代表をもぎ取る。両大会を制し、立場を逆転させた。
山本も黙ってはいない。上背(165センチ)で吉田を9センチ上回り、力強さがある。03年の世界選手権は非五輪階級の59キロ級に回って優勝。吉田も電光石火のタックルを武器に55キロ級で連覇。アテネ五輪代表争いで山本は55キロ級に戻り、「沙保里を倒す」と闘志を燃やす。
03年12月の全日本選手権と04年2月のジャパンクイーンズカップで優勝すれば、五輪切符を手にする。「スピードの吉田」と「パワーの山本」。日本の55キロ級を制すれば世界を制す―。「女のバトル」が最高潮に達した。
全日本選手権決勝は互いに譲らず延長戦へ。吉田は、山本が力任せに試みた投げ技を透かし、背後を取ってポイントを奪うなどして勝利。紙一重の攻防だった。後がなくなった山本は「死ぬ気で練習する」とクイーンズ杯で雪辱を期す。その決勝。吉田は終盤、投げ技を倒れ込みながら防ぎ、逆に押さえつけて得点。宿命の対決が決着した。
山本の腕力に対抗するため、食べて鍛えて筋力を強化し、それが奏功。吉田は「アテネで絶対に金メダルを取る」と宣言。一直線に有言実行した。
今は、米大リーグでプレーするダルビッシュ有投手の夫人としても知られる山本。一時期は米国で指導し、教え子にヘレン・マルーリスがいた。16年リオデジャネイロ五輪で、マルーリスは吉田の4連覇を阻んで金メダル。ライバル物語の糸がつながっていたのか。(2020.5.10)
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