◇「幻」の内股透かし 2000年シドニー
柔道会場に怒号が飛び交った。2000年シドニー五輪男子100キロ超級決勝。篠原信一がダビド・ドイエ(フランス)に敗れた直後のことだ。山下泰裕監督が両手を広げて抗議し、審判団に「あの場面をモニターに映してくれ。よく見てくれ」と詰め寄った。この階級担当の斉藤仁コーチは憤まんやるかたない顔で、畳を降りようとする篠原を押しとどめた。
「あの場面」は開始1分半が過ぎたところ。篠原が、相手の内股をかわして投げる高度な返し技「内股透かし」を決めた。一本で試合は終わったはずだった。
しかし、主審は「有効」をコール。ガッツポーズをつくった篠原の唇が「えっ、一本でしょ」と動いた。しかも、この「有効」は自身ではなく、相手のポイントだった。
投げた際に自分も半身で落ちてはいるが、相手は裏返っている。戦っている当人も見ている側も何が起きているのか分からないまま、篠原は敗れてドイエが五輪連覇を引退の花道にした。
テレビのニュースでは、五輪前に柔道の取材現場でほとんど姿を見たことがなかった女子アナウンサーが、泣きながら試合の様子を伝えた。主審には脅迫状が送りつけられ、ワイドショーはその主審を母国ニュージーランドの自宅まで追い掛けた。
柔道史に汚点を残した試合には違いないが、実はかなりの好勝負だった。上から後ろ帯を取って力で内股を繰り出した相手に対し、篠原が巧みなカウンター。その後、ドイエへの「注意」でポイントは並び、残り50秒を切って篠原が内股で勝負に出たところを返された。これは正真正銘の「有効」で、熱戦は終わった。
敗者は表彰台で涙を流し、「(相手は)強かったです。弱かったから負けたんです」と言ったきり口を閉ざした。誤審問題に一切触れなかったのは、柔道家としての誇りか。物議を醸した試合は、審判の判定を検証、訂正するジュリー(審判委員)制度や、ビデオ判定の導入を後押しした。(2020.6.3)
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