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【特集】五輪 あのとき

無敵の田村、衝撃の敗戦

◇未知の北朝鮮選手に 1996年アトランタ

 試合終了と同時に、田村(現姓谷)亮子は畳に座り込んで動かなかった。色を失っている数秒間が、かなり長い時間に感じられた。五輪で驚きの金メダルはある。だが、これほど衝撃的な敗戦は、めったにないだろう。

 1996年7月26日、アトランタ五輪柔道女子48キロ級。日本オリンピック委員会(JOC)は、当時20歳の田村を全競技で最も金メダルに近い日本選手とみていた。国内外で4年間負けなし。期待が大きければ大きいほど、自身の力にできる選手だった。試合前夜、気合を込めて組み合わせ表を枕元に貼り付けて寝た。

 この階級の2番手とみられていたキューバ選手に完勝した準決勝の時点で、栄冠を確信した。決勝の相手は北朝鮮のケー・スンヒ。国際大会の経験はなく、推薦で出場した未知の16歳だった。

 左組みの相手は10センチ以上の身長差を生かすように、田村の奥襟を狙ってきた。最も軽い階級とは思えないパワー。圧力に対抗しようとして出した技を返されてポイントを失った。試合後、4年後について問われると「これで終わりにしたくない」。同じ日に男子60キロ級を制した野村忠宏のメダルを見ると、「何で私の色と違うの」とつぶやいた。

 実は試合以前に、日本は情報戦で敗れていた。相手のデータは皆無。一方、北朝鮮には日本に長年住む柔道指導者がいて、日本柔道界と深く交流していた。当然、田村は研究されていた。

 また、柔道着は右側を手前にして左側を上に重ねて着る「右前」が正しいが、当時のルールには明記されていなかった。相手は逆の「左前」に着て、組み手争いで優位に立った。北朝鮮側は、柔道発祥国のエースを倒すため、あらゆる手を尽くしていたわけだ。

 田村は失意の底から再起し2000年シドニー五輪で金メダル、04年アテネ五輪で連覇を遂げた。一つの敗戦が、日本の誇りと言える柔道家を強く成長させ、磨き上げた。(2020.5.8)

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