新型コロナウイルスの感染拡大によって、東京五輪開催の可否が取り沙汰されている。1896年にアテネで第1回大会が行われて以来、今夏の東京大会で32回目を迎える夏季五輪。熱狂と感動の歴史を刻む一方で、絶えず事件とトラブルに見舞われてきた。戦争、紛争、冷戦、民族、人種、カネ、ドーピング…。それらの中には肥大化とビジネス化によって、自らその火種を大きくしてきたトラブルもある。「平和の祭典」が見せてきたさまざまな横顔、裏の顔をたどる。
■第1次大戦で中止に 1916年ベルリン大会
14年に勃発した第1次大戦の長期化によって中止された。大戦の引き金となった「サラエボ事件」が起きた同年6月28日は、ベルリン郊外に整備された新競技場の開場式が行われた日だった。19年1月のパリ講和会議で大戦終結の流れができると、国際オリンピック委員会(IOC)は早くも4月に翌年のアントワープ大会を予定通り開くことを決議。五輪の存在をアピールしている。
日本は前回ストックホルム大会で五輪初参加を果たし、陸上短距離の三島弥彦、マラソンの金栗四三が出場。金栗はベルリン大会中止による8年のブランクを乗り越え、20、24年大会でも走った。
ちなみに夏季五輪は、中止・返上になっても回数に数えられている。
■終戦翌年、ドイツなど不参加 1920年アントワープ大会
敗戦国のドイツ、ハンガリー、オーストリア、トルコ、ブルガリアなどが参加できず、戦争が終わっても「ノーサイド」とはいかなかったが、ベルギーは大戦の爪痕が深く残る中、短期間に競技場建設などの準備を進めて開催にこぎ着けた。
テニスのシングルスで熊谷一弥、ダブルスで熊谷、柏尾誠一郎組が2位となり、日本選手で初めて五輪のメダルを獲得している。
■ヒトラーの五輪 1936年ベルリン大会
アドルフ・ヒトラー独裁政権下で行われた大会。五輪が国威発揚と政治的プロパガンダに使われ、そのツールとして聖火リレー、テレビ放送、記録映画制作もこの大会から始まった。
女性監督レニ・リーフェンシュタールを起用した映画「オリンピア」(日本では「民族の祭典」「美の祭典」)は、画期的な撮影技術で「スポーツの美」を追求し、ベネチア映画祭作品賞を受賞するなど世界中で称賛された。観客席で陸上競技を見て拍手するヒトラーの姿もあり、第2次大戦後には、ユダヤ人虐殺や大戦へつながる宣伝道具だったともいわれた。
■日中戦争で幻の五輪に 1940年東京大会
36年7月、嘉納治五郎らの尽力によって東京五輪開催が決まったが、37年に起きた盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が拡大。国際的な懸念が高まり、国内でも競技場建設のための鉄材が物資統制によって使用困難となり、東京市(当時)の起債にも支障が生じるなど、情勢は悪化の一途をたどった。38年7月、政府はついに閣議で返上を決め、IOCに伝えた。5月に嘉納が海路帰国途中に急死したことも痛手だった。40年に札幌で行なう予定だった冬季五輪も返上。
東京に代わってヘルシンキが開催を引き受けたが、結局開催されず、4年後のロンドン大会も中止に追い込まれた。
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