その前の84年ロサンゼルス大会も金1号は遅く、第6日だった。栄誉に輝いたのは射撃ラピッドファイアピストルの蒲池猛夫。当時48歳ながら「おじいちゃん選手」と呼ばれた。日本の五輪史上最年長金メダリストで、孫もいたからだが、報道のされ方を見ると、現在とは年齢に対する感覚の違いがうかがえる。
蒲池が「号砲」を鳴らしたかのように、その日のうちに体操男子個人総合の具志堅幸司、レスリングのグレコローマン52キロ級で宮原厚次も金メダル。日本は80年モスクワ大会を、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する西側諸国の一員としてボイコットしており、国民は8年ぶりに五輪で聞く「君が代」に沸いた。
76年モントリオール大会の金1号は劇的だった。体操男子団体総合で5連覇を狙った日本は、大会直前にエース笠松茂が盲腸炎で出場できなくなる大ピンチ。規定でソ連に0・5点差をつけられた上、自由の途中で藤本俊が負傷し、残り3種目を5人で戦わざるを得なくなった。
団体総合は6人で演技し、各種目の最も点数の低い選手を除いた合計得点で競う。5人ぎりぎりでは1人の失敗も許されない。しかし、控えから急きょ笠松の代役に入った五十嵐久人らが大技を連発し、最後は塚原光男が鉄棒で「新月面宙返り」を決めて奇跡の大逆転。大会第4日に金1号をもたらした。まさに体操ニッポンの底力だった。
72年ミュンヘン大会も金1号、メダル1号は体操男子団体総合。塚原が鉄棒で新技「ムーンサルト(月面宙返り)」(後方抱え込み2回宙返り1回ひねり下り)を決め、世界を驚かせた。69年に米国の宇宙船アポロ11号が人類初の月面着陸を果たしており、宇宙遊泳を思わせるところから技の名が付いた。
64年の前回東京大会、次の68年メキシコ大会は重量挙げが先陣を切った。東京のメダル1号は第2日で、バンタム級・一ノ関史郎の銅。翌日、フェザー級の三宅義信が金1号に輝いた。三宅はメキシコでも第3日に金1号となり、弟の義行も銅メダルを獲得してこの2人がメダル1号。そっくりな顔が表彰台に並んだ。ロンドン、リオ大会と続けてメダルを獲得した宏実は義行の娘。
柔道が大会前半になってからは、比較的早く1号が出ているが、1号が早くても日本選手団全体の競技力が低ければ後が続かず、メダル総数は伸びない。ただ、柔道チームにとってはやはり軽量級で弾みをつけることが重要なようで、ロンドン大会は第4日の女子57キロ級・松本薫まで金がなく、柔道のメダルは金1、銀3、銅3にとどまっている。
来年の東京大会は、開会式翌日の第2日から柔道、フェンシング、重量挙げなどでメダル決定試合が予定されている。重圧に打ち勝って日本の金1号、メダル1号を手にするのは誰か。(時事ドットコム編集部)
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